見出し画像

「妄想」は落書きなのか?

半田市中心市街地コンセプトブックできました

昨年、市内外オープンに公募して未来図ワークショップを重ね、半田市中心市街地全体の活性化コンセプトと3つのエリアに分けたそれぞれのエリアビジョンを「妄想スタイル」で描いたビジョンマップを作り、公開しています。

https://www.city.handa.lg.jp/machi/shigaichi/1006099/1007608.html

たまに聞こえる「こんなの落書き」の声

「実現できないことばかり描かれている」
「現実に即していない」
「こんなの作ってどうするの」
妄想から入る一連のプロセスではたまに聞かれる言葉です。
基本的に夢を思い描くことを忘れている日本社会、その夢の形を示すことを「だれか」に依存する社会ではそういった見方は珍しくありません。
そうして、失われた30年も社会はふらふらと目指す港がわからぬまま漂って燃料を食いつぶしてきた船、みたいなものでした。

目標や目的、イメージがあり、成し遂げられる

私はよく、セミナーやワークショップで投げかけます。

「今日みなさん、この会場になぜ来たのですか。どのように来ましたか。たどり着けたのですか」
 
答えは簡単です。
「自分に必要な何か、成し遂げたい何かに資するものを手に入れたいから」
「会場である目的地が示されていたから」
「そのために、合理的な交通手段や時間配分、費用配分を考えることができたから」
 
そこに至りたい自分自身の動機や目的地がなければ、人は合理的に動けないのです。
まちづくりも同じです。

妄想は創造的起点と目的地、方向の共有

私が提案、取り組んでいる「妄想まちづくり」は当然、その地域の”活性化”を「実現していくこと」の仕組みです。仕組みの無い妄想はご指摘通り、単なる妄想であり、お絵描きなのでしょう。

妄想は創造的な起点を主体的な人材が創り、共有する入り口であり羅針盤

私が進めている妄想まちづくりプロセスは、構想・計画作成、実行を前提としたものです。
ゆえに、半田市は今年度、先日設立された民主導の中心市街地活性化協議会と連携して、中心市街地活性化基本計画を策定していくとともに、すでに走りだせる活動についてもできる限り実証実験や応援をしていきます。
 
最大限の魅力化を実現するための起点と展開、方向性と仕組みを入り口で共創し、共有してから現実とすり合わせて最大限の実現を図る。それこそが合理的で経済的であると考えています。

制約・現実から入るから矮小化してつまらない・続かない。日本では左側の取組みが多いのでは。

「アリバイづくりのワークショップ」の無駄

まちづくりの現場では、間違ったワークショップがかなり多いのではないでしょうか。
その最たるものが、公的機関が行いがちな「住民を巻き込んで意見を聞いたよというアリバイ作り」のワークショップです。実際はアイデアが実現されない会にはアテ職的な「いつもの面々」が出席し、負担感を持ち、そのうち
「ワークショップなんて無駄」という誤解が主流になります。
そして何よりも、現場でそれに関わる運営側の人間もなんらやりがいを持つことがない。これこそ、無駄としか言いようがありません。

それ以外は、アリバイ作りではないけど単に手法が間違っているケースが多いかと思います。単に、意見聴取程度であるという誤った認識やり主体性のない苦情や要望を述べる場と誤解しているのが主な要因です。
 
私が着任してから、半田市中心市街地活性化において行政は「アリバイづくりのワークショップはしない」ことをことあるごとに伝えています。ワークショップの真の目的やそこから得ていくべきこと、創っていくべきことについて常々、関係者と話し合いながら進めています。昨年度の未来図ワークショップについてもそのような視点から従来からの転換を図る取組みをしました。結果、気運づくりにもしっかりとつながっています。

「経費」ではなく「投資」感覚を持つ

「別に、入り口を作るのに妄想は必要ないじゃないか」
「むしろ時間と経費の無駄」

という声もあるでしょう。
後者については「経費」という考えである時点で、多くの場合、間違っています。これは「投資」だからです。
すべてを「経費」としてその節約ばかりをしてきたのが「失われた30年」ではないでしょうか。「投資」をしてこなかった結果、
「創造性の欠如による競争力の低下」
「中堅どころを担う氷河期世代の人材がいない」
「何を目指せばいいかわからない」
そんな課題に直面しているのが今の日本です。
超氷河期世代の私からすれば、育てずに人も産業もまちも育つわけがない、ということは当時から自明の理でした。

問題ではなく願望から始め、可視化すること

私は27歳で独立して今年で22年目のまちづくりコンサルタント事務所の事業主です。
「自明の理」ゆえに、独立当初から「妄想」から始める必要性を現場で訴えてきましたがそれはもう、現場で取り合ってもらえなかったものです。

まちをライブ感のない博物館にするような、変わり映えのしない”まちづくり”がずっと続いてきました。
 
これは企業経営もそうなのですが、「問題点」は上げ始めるとキリがないのです。肝心な問題以外含め、すべてを潰そうとすれば時間も費用も労力も莫大なものになり、停滞が起きます。
大切なことは、「強み」「望み」を明確にし、そこから目的地を描き、共有し、活路を開いていくことです。
それが創造的で主体的な活動を促し、共感を集め、合理的な手段やお金の使い方に繋がるのではないでしょうか。

311を経て社会の価値観が変わり始め、コロナ禍で社会の閉塞感と先の見えなさが行きつくところまで行きつきました。そして「妄想」の必要性・有効性は確実に認識され、むしろ望まれるケースが増えています。
(その妄想のしかたも大切です。単に妄想すればいいわけじゃないのですが、それはまたいずれ)

まちづくりは自分の生きかたづくり。
ゆえに、描くもの。

昨年、妄想視点からの未来図ワークショップを重ねてコンセプトブックやビジョンマップを作った半田市中心市街地では確実に気運が醸成されています。
これは
「回数を重ねて描き、参加者が自分の生きかたを可視化したから」
に他なりません。

このようにしてできた妄想図をお絵描きとか落書き、などとは、私は到底言えません。むしろそこにあるのは敬意です。
 

オープンであること

昨年の未来図ワークショップは、公募で市内外からの参加者を得ての取組みでした。

とはいえ、今もなお
「一部の人間だけでやっているじゃないか」
と誤解の声をいただくことがあります。

中心市街地に関わりたい主体的な方であれば、市内外問わず参加できるオープンな取り組みであることが重要だと考えそのようにしていますが、まだまだ情報の流通を含め、課題があると感じています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?