【読書日記】『山梔』

『山梔』野溝七生子

 本の中に自分を見つけるといういつぶりかわからない、そして全身で力を込めていなければならないような読書だった。こんなにも、読もうとおもわなければ読むことのできない本が世界にはあと一体どのくらいあるのだろうかと考えるだけで眩暈がする。山梔の香りと百合の花から落ちる朝露で人は生きてゆかれたらどんなによかったか知れない。この本と出逢ったのがいままで生きてきたいまのわたしでどんなによかったか知れない、もっと若いときに出逢っていたらきっと受け止められなかった、いま出逢うべきだったという本なんて一体何冊あって一体それとどのくらい上手に出逢えるのかと、これはもう眩暈のするくらい幸せなことでした。

 さて『山梔』を読み最初に感じたことを正直に言ってしまうと、それは輝衛への失望だった。
 彼は我らが気高き主人公、阿字子の兄である。
 その兄がわたしはたいへん好きだと思いながら読んでいた。この小説についてなにかを言うのであれば阿字ちゃんのその誇り高い魂のこと、気高くうつくしい存在、あるいは彼女の聡明さを取り合げるべきなのかもしれないが、でもこれはわたしの読書日記だから好きに話していいだろう。だから輝衛について。
 輝衛が阿字子を本屋へ連れてゆこうと約束した場面がたまらなく好きだ。この小説全体を通し、その前後を含めた場面がどこよりも好きだ。あのとき輝衛は確かに阿字子のすてきな兄様であり、また阿字子と同じく誇り高い人だったように思う。
 それがこうも変わるものなのか。一体、京子という女はどれほど輝衛を虜にしてしまったのだろう、という考えはメロドラマが過ぎるけれども、しかし結局のところ輝衛は恋愛に自分自身を投げ出したのだった。その結果だろう、わたしのこの失望も物語の結末での彼のああした態度も。

 それから、京子について。
 京ちゃんを性格の悪い女だと一言でまとめてしまっていいものか、や、好きか嫌いかで問われればわたしはとてもとても嫌いなのだけれど、それはわたしの日常でも京子のような女がたくさんいたからである。
 でもそうした彼女たちだって彼女たちの目で世界を見て考えて(おそらくなにかしらは考えて)生きているだけなのだ。
 京ちゃんはこんなにも阿字ちゃんのために行動しているのにと傷つく、それを輝衛は怒る。しかし落ち着いてほしいものだ、阿字子が一体いつ結婚を望んだのだろう。そして一体いつふたりにその世話を焼いてくれるよう頼んだのだろう。はっきり言ってただの有難迷惑なのだが、時代で片付けていいのだろうか、あれは人と人は違うのだということを受け入れることもしなければ向かい合おうともしなかった、ただの一方向的なお節介の押し付けである。
 京子ははじめから聞く耳を持たなかったが、阿字子は決して決して頭から京ちゃんを否定していたわけではなかった。けれどもう、一度広がった距離は戻らない。もはや阿字子がなにを言っても否定的にしかとることのできない京子のあれはヒステリックすぎるなあ。しかしそこがまた京子の人間らしく、現実味を帯びているところでもある。
 京子には京子なりの正義や悪や正解や間違いがあるのだろう。はじめから、阿字子とは生きている世界が違うのだ。
 だからと言って、その自分の信じる正義のもとに敵対している(と彼女は思っている)ものをむりやり引きずり出して一方的に打ちのめしてしまうというのはやはり違うのだ。違うんだ、京ちゃん、阿字ちゃんが一度でもあなたを打ちのめそうとしましたか。
 きっとやろうと思えばできただろうなと思う、阿字子の聡明さを持ってすれば。
 しかし最初から違う世界に生きているふたりは、つまり阿字子と京子はもはや持っている言葉の意味がちがうのだ。同じ言葉を話していても、その言葉の意味が違う。意味が違えば互いの言葉を正しく受け取り合えない。その繰り返しだった、が、京子が卑怯なのは自分で向かい合わなかったところだ。周囲を味方につけ、なにより輝衛という盾を用意し阿字子を責める。それはどうしても卑怯であるし無様ではないだろうか。
 でも仕方がない。京子はきっと最初から、自分では阿字子に敵わないとわかっていたのだ。まあわかっていたよね、極端に言えば家から追い出そうとしているのだから。

 しかしそれでああなってしまうのか輝衛は。
 輝衛さんは阿字子のなにを見ていたのかなと不思議でならないし、そもそも話し合おうとしないのか、しないか、しないなあ。そこにとても失望したのだった。
 それを思うと晃が兄であったらと言った阿字子の言葉がさらにさらに強く響く。輝衛が阿字子を本屋へ連れてゆくと約束した場面の次に好きなのが、晃と阿字子のふたりが語らう場面だ。あれこそが、愛ではないだろうか。恋愛だとか性愛だとかではない、ただその人を見つめ素直に心のうちから言葉をこぼしてゆく行為。うつくしかった。たとえその結果が京子や輝衛にとっての恋愛が成就するという意味に当てはまらなくとも、あのふたりの語らいの場面にはふたりにしか分かり合えないある種の愛があったのだろう、や、あったと思いたいのです。

 緑さんをはじめ調さんに早苗さんと魅力的な女性がたくさんたくさん登場するが、阿字子が彼女たちよりも生きづらかったのはやはり家だろうなと思う。家。家はときに呪いであるな。
 ここで自分のはなしをしたものか迷うが、わたしは博士論文を書き終わってしばらくした頃、親族のひとりから女が賢いと碌なことがないと言われたことがある。いまの時代でもこうなのだ。阿字子が本ばかり読んでいると非難されていたことが悲しくてならない、本は、学問は、それを追求するものにとってもはや魂の一部でしょう。
 阿字子が幸せに生き延びたことを信じるしかできないわたしは、しかし彼女には、きっときっとそれができたともわかるのです。

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