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感性のさきで作品に向き合う、人文学の紡ぐ豊かさのこと


5月2日の0時04分、りぼん6月号を読んだ。0時ジャストじゃないのはKindleの配信に誤差があるせい。ダウンロードに時間が掛かると、なんとなくギリギリとしてしまう。早くしてほしい。発売日に本屋へ駆け込んで、そわそわしながら購入して、家に着いたら急かされるように読んでいた子どものころを思い出している。6月号、表紙、巻頭カラーの『ハニーレモンソーダ』。

単行本になるまでnoteではネタバレをしないでおこうと思うけど、私、やってしまったな? 笑ってしまった。ごめんむらまゆ。愛が重すぎてこのことをこれまでに何度もたくさん書いちゃったよ。でも嬉しい。だよね、そうなんだよね、この話はそういう話なんだよね。私、これは完全に、ハニレモと相思相愛では? やっぱり1月1日早朝の出会いは2020年の運命だったな。


1つの作品を、繰り返し読むこと。あるいは、見ること。そして考えつづけること。大学院のときに泣きながら取り組んだ修士論文を思い出さずにはいられなかった。ハニレモが今日まで伝えてきたかったことを私はちゃんと理解できていて、私はきちんと1つの作品に向き合うことができているのだと知ったとき、静かな歓喜が心のなかからわき上がった。

そういえば、大学院に進学してちょうど10年だ。進路に悩んで、苦しんで、泣きわめいて両親と闘争して、まわりに訝しがられたり否定されたりしながらも、平日も休日も図書館の閉館ぎりぎりまで勉強して、友人を蹴落として、勝ち取った大学院の学生番号。あれからもう10年。10年経つんだ。私の人生で、ただ一つ、絶対になにも間違ってなかったと言えるあの時間から。


遠回りだった。いろんなことが。他者から見たらそれはむだな時間なのかもしれなかったし、選んだ道ではあっても、研究者としての素質のなさに私自身死ぬほど頭を打ちつけた。明白な答えがないことのなかで「正しさ」を追い求めるのは、難しい。誰も本当の正解を知らない、テストのように答え合わせはできない、だけどかぎりなく事実に近い歴史と理解がどこかにあるはずで、私のしていた研究はそういうことだった。

日中夜、同じ作品を眺めた。同じ先行研究の前で唸り声を上げた。バカな私には、ゴヤという、あまりに巨大すぎるスペイン人画家の複雑さは禿げそうなくらいわからなかったし、修論の提出〆切の15分前まで、学務課の前でなんとか製本した「なにか最悪なシロモノ」を手に吐きそうになっていた。間に合いませんでしたって、修了を半年後まで延ばすか、ガチンコに悩んだ。悩んで頭を掻きむしったのでさらに禿げそうになった。悩んで、悩んだけど、ただでさえ超ド級の我が儘を言って進学していたし、しょうもない凡人の頭脳しか持ち合わせない私では、半年先に延ばしたところでたいしたものを仕上げられそうにもなかったから、諦めて提出した。

18時ちょうどに開始された口頭試問は最悪だった。終わったのは19時過ぎ。ほとんど1時間の説教だ。人生であの1時間ほど、他人に言葉で滅多刺しにされたことはないと思う。先生方のじつに的確な指摘にものすごく身体を小さくしながら退出した。――論文へのプライド? そんなもの持って生きててなんになるんだよ。いますぐ可燃物に出して捨てろ。おまえはバカだと自覚しろ。いいか、おまえはバカなんだ。わかるか、私の言葉が理解できるか、ていうか理解しろ。理解するんだ。エコとか言ってさっさと消灯された暗い校舎の廊下で、そんなふうに自分のことを死ぬほど罵倒した。

そんな出来であったので、1年後に紀要論文としての掲載が打診されたときは、あまりの恐怖におののいて、ちょうどそのあと病気になってろくに生活できなくなったので、ここぞとばかりに私は論文から逃げ出した。


「作品を読む」ことには、技術がいる。私はそれを知っている。自由な感性で作品を見ること、受け止めることと、作品にひそめられている意図や文脈を「正確に読み解く」ことは、一見似ているようで、全く違う。
例えば、私が三浦界の顔面をただ好きだとさけぶことと、『ハニーレモンソーダ』が少女漫画の文脈のなかでどういう立ち位置にいるのか、そこに描き出されている事象は何なのかを考えることは、このような媒体においてたとえ一つの記事として併記されていても、実態は視座が異なっている。(まあ、この件に関しては、論文を書いているわけではないから、論拠が弱く感覚的なところが大きいので、当然、これを評論だとは呼ばないが。感想と称してまったく差し支えない。真剣に書いてはいるけれど。)

正直、何らかの作品を「正確に読み解く」ことに、私はあまり自信がない。理解しきれずに持てあました経験があり、いまでもゴヤについて考えるとき、劣等感で苦々しいきもちになってしまうから。それは漫画だろうが映画だろうがアニメだろうが音楽だろうが演劇だろうが、――絵画であるならなおのことだけれど。それでも、こうして、4ヶ月近くただ1作品を読みつづけたことで、確かに至る場所があった、というのは、素直に嬉しい。

遠回りだった。いろんなことが。だけど積み重ねてきた時間と経験は間違いなく私のなかに息づいていて、私はそれらを用いることができ、言語化するすべを頼りなくも得ている。あの日夢見た何者かにはなれずとも、誰かに言われるでもなくただ自分で「やりたいから」と選び取った道を、絶対に、なに一つ、間違っていない時間だったと思えることがいまは誇らしいのだ。


感性のさきで、作品に向き合えること。それが明日なんの役に立つのかと問われても苦笑するが、より深く作品を読めることにより視野が広がり、他者への理解の角度が増え、「私」が豊かになるのだとしたら、その豊かさでもって社会に還元していくことができるのかもしれない。まだまだ全然、私には能力が足りていないし、これからもずっと勉強だと思っているけれど。「社会」というものが、数多の人によって構成されているかぎり、そしてこの世界が誰しもの豊かさを希求するかぎり、永遠に不要になることはないんだろう。――人文学というのは、たぶん、そういう学問なのだ。


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