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空の花篭、



 2月に、10年近く運営していた個人サイトを閉鎖した。随分前から悩んでいたことで、今回決断するに至った理由はいろいろあったのだけど、一にも二にも「疲れた」というのが本音だった。
 どんなに更新頻度が落ち込んでも、来訪者が少なくなっても、個人サイトは、私にとってまごうことなく「家(ホーム)」だったし、居場所だったし、さびしい私が誰かとつながるための拠点だった。潔くやめたわけじゃないから、3ヶ月経ったいまでもときどき、自分で跡地を覗きに行く。ここでの私は、いつも本当に格好悪かったな、と思いながら。ちなみに最後まで格好悪かった。消したけど。
 格好悪かった、格好付けなくてよかった、ださい私のままださい私の文章をいくらでも書いていられた、いつでも楽に呼吸のできた、誰にでもひらいているけれど誰にも明け渡すことなく永遠に閉じている、私だけの家。
 たぶん、いつまでも未練たらたらだろう。
 また開設するかもしれない少しさきの自分に期待して、アドレスは消さずにいるけれど、本当はもう、わかっているんだ。いまさらそんな「私の家」を建てずにはいられないほどの、孤独も、情熱も、憧れも、あるいは愛らしきものも、抱けないだろうってこと。


 とはいえ、ものは書きたい。なんか書いていたい。書けないとわかると異様に餓える。何せ、小学生のときから何かしらずっと書いていたので、書かない人生というのが想像できない。大学4年生のときに就活を放り投げたのだって卒論を書きたかったからだし(規定枚数を超えていて他の学生より10枚は多かった)、その後進学した大学院も、ぎゃあぎゃあわめいてはいても修論を「書く」という行為そのものは楽しかった(と思う)。


 私はとてもさみしい人間だったから、来る者拒まず去る者追わずをポリシーにサイト運営をしてきたけれど、来る者を拒むべきだったときは間違いなくあったし、だから逆に、去る者を追うべきときもあったかもしれないな、とも思う。ささいな感傷だ。日々を摘んで、花篭にたくさん用意していたはずのあの日の花は、もう私の手許では咲いていなくて、誰かにまた一輪を差し出せるようになるためには、土に種を植えるところから始めなくてはならないんだ。
 いつ、芽吹くんだろう。
 どれだけの水と太陽がいるんだろう。
 私はちゃんと、花を咲かせられるのかしら。
 考えたって仕方なくて、空の青さを吸い込んで、風の声に耳を澄まして、太陽に笑って、たまの嵐の日には踏ん張って、想いの花が咲いたなら、そうして日々を摘んでゆく。空の花篭に。




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