せめて、それはダメだとはっきり言えるあなたになってよ


私をいじめていた彼女たちを許せるか。15年以上自問している。

この頃は、ゆるす、とはどういうことなのだろうかと思う。今でも嫌いかと聞かれたなら「嫌いではない」と答える。きれいな顔をして恨んでいるんでしょうと質されても「そんな感情は摩耗しきったよ」と言う。彼女たちの不幸せを願わずにはおれないか? ――そんな呪いを後生大事に抱いて生きて、私は幸せでいられるだろうか。だから答えは「まったく、全然」なのである。私は幸せで、彼女たちはなんということもなくふつうに生きていて、それが受け入れられていいと思っている。

じゃあ許しているんですねと、内なる声が重ねて問う。どうだろう。許すというより、無関心に近いのではないかという気がする。

20歳の頃は、なぜだか、強迫的に「許さなければいけない」と考えていた。彼女たちを許さないと、私は生きていてはいけないような、彼女たちを許すことで「きれいな私」に擬態しないと、息ができないような、そんな感じがいつもあった。だから会いたくもないのに誘われれば同窓会へ顔を出したし、何かにつけ彼女たちが寄越してくるメッセージに、私は律儀に返信していた。私は許したかった、そして、あの頃の彼女たちは、たぶん、許されたがっていた。私が自分のために彼女たちを許したかったように、彼女たちもまた、真実私のためを思っての行動ではなかったと思う。自分のために、自分のやましいところを「なかったこと」にするために、20歳を境にやたらと私に愛想を振りまいていた。

こんなに息苦しい友情ごっこは他になかった。滑稽だ。私も、彼女たちも。

それが途絶えたのは、結婚するから2次会に来てほしい、と1人が声を掛けてきたときだった。断った。さすがにそれはムリだなあと思った。「誘ってくれてありがとう。前にのろけて話してくれた人かな? 私は行けないけど、お幸せにね」そう返信して、2、3、やりとりをして、それきり私たちの関係は終わった。本当に。所詮狭い生活圏なのでたまに街ですれ違うことはあるけど、お互いに、何も言わずに通りすぎる。そのたびに、私の心は褪せていって、今ではどうとも思わない。だから許したわけではなくて、私にはもっと大事なことがあって、彼女(たち)にももっと大切なことができて、傷つけられて、傷つけた、当時の痛みが遠ざかって、日常に埋もれてどうでもよくなってしまった、それだけなのじゃないかという気がする。

友だちかと聞かれたら、それには苦笑したい。友だちだった。たぶん。もっとずっと昔は。保育園とか小学校とか、無垢だった頃の私たちは。だけど、音を立てて崩壊した3年間の中で、友だちではなくなったし、それは20歳になって再会したときにはもう、二度と取り戻せない関係性だったと思う。私は彼女たちを一瞬も信用できないし、彼女たちは私の挙動に気を遣いすぎて、とても健全とは言えなかったから。

いいんだ。許すとか、許さないとかそんなものは。私は幸せに生きているんだから、彼女たちも幸せに生きていいんだ。傷つけたことに自覚的で、居酒屋の暗がりの中でこわごわと笑うあんな目を、別に、私は望んでいたわけではなかったから。あなたが不幸になっても、私は喜ばないし。初詣で、夫と子どもと一緒に歩いていくあなたを見ながら、せめて、あなたの子どもがあなたの過ちを繰り返さないように、そして、私のような目に遭ったときには、絶対に正しい行いをしてくださいと願うだけで。そんなことは起こらないでほしいから。わかってくれているといいなと、思う。

私の知っているずっと昔の彼女たちなら、きっと、わかってくれているはずだと。


▽▲▽

自らの間違いに気づけない人は、たくさんいる。私にも、自認できていない罪深さがばかみたいにあるんだろう。だけど、気づく人もいる。後悔する人も、やり直そうとする人も。許す側の人間が永久にいなくなった、二度とどうにもならない出来事の前で、間違えた人がどんなふうに息をしていくのかなんて、私には想像できないけど。

だけど気づいたのなら、気づいてくれるのなら。


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