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第2回 言えなかったこと

 昔住んでいた名古屋の家の近くにチキンライスが抜群に旨いJAZZ喫茶がある。久しぶりに近くに行くことがあり、6年ぶりに訪れた。コロナもあり、お店がまだやっているのか心配であったが、あの頃と同じくトレードマークの”ワニの看板”が店前に設置されておりほっとした。

 店内は10席程度であろうか大きくないスペースで、天井からは低音を聴かせたJAZZが大きめの音量で降り注ぐ。その音量のため、他人の会話が聞こえづらく、ゆっくりとコーヒーを飲みながら小説を読み耽る環境が揃っており、よく利用していた。あの頃のままだ、朧げな記憶が蘇ってくる。話したことはないが店員さんもおそらく同じ人であった。少し分厚めのコルク製の手書きメニューも変わらない。戦時中、コーヒー豆の調達が困難な際に考案された「たんぽぽコーヒー」なるものを初めて知ったのもこのお店だったな。本当にたんぽぽの根から抽出した飲み物でコーヒーに似た味がするらしいが飲んだことはない。無論、コーヒーを注文するからだ。

 チキンライスの味も変わらずに抜群に旨かった。こんなのが自分で作れると良いなとおそらく6年前も思ったことを口の中で再確認した。食後のコーヒーを楽しんだ後、会計の際に店員さんから、「昔良く来て下さってましたよね?」とお声がけいただいて驚いた。何度も通ってはいたが、「いつもの」と言えるほどの常連でもないし、店員さんと会話したこともなかったからである。さらに6年ものブランクもある。「え、本当に覚えてますか?かなり昔ですけど、、」「はい、会社の方ともいらっしゃってましたよね」確かにあの頃は会社も近くにあり、たまに先輩とも来ていた。どうやら本当に覚えていてくれたらしい。だからどうだというわけではないが、嬉しい気持ちにはなる。「引っ越してしばらく来れなかったのですが、たまたま近くにくる用があり、あの味が忘れられずにまた来ました。とても美味しかったです」通常の20%増しの表情、声で伝えた。今思えばここで終われば良い思い出として終わったのである。
 「確か住友の人ですよね?」店員さんの一言で自体は一変した。私はどこを切り取っても住友の人ではない。人違いの可能性が出てきたのである。「あ、はい」どことも言えないトーンの返事をして店を出た。その後の確認作業を行う会話の中で人違いが発覚し、微妙な空気になり、20%増量したトーンを暴落させたくはない、キレイな思い出に終止符を打つことを避けたかったのだ。

 こんな時にしっかりと「違う人です」と言える人を私はすごいなと思う。間違っていようが大きな問題でもなく、被害もないのであればその場の雰囲気に良い方に身を委ねる選択をしてしまう。あえて否定して変な雰囲気になりたくないからだ。ただ、顔には出やすいタイプなので、私の返答で「あれ、違ってた?」と店員は感じ取ったかもしれない。いや、感じただろう。

 今年の夏までは岐阜に住んでいるため、また名古屋に顔を出す機会があるだろうが何となく店には行きづらい理由ができてしまった。


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