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写真展「50年前の漁村を歩く」備忘録③


2024年7月4~28日に三重県の鳥羽大庄屋かどやで、父・鼻谷幸太郎のモノクロ写真展「50年前の漁村を歩く」を開きました。志摩半島と離島の7漁村で1968(昭和43)年~1975(昭和50)年に撮影した作品を集めたものです。

備忘録の3回目は、展示作品の撮影地を訪ねたフィールドワークの報告です。

三重大学海女研究センターの協力

作品45点のうち鳥羽市相差地区の展示コーナーの12点は、三重大学伊勢志摩サテライト海女研究センターから借用したパネルでした。

経緯を説明すると、海女研究センターと鳥羽市立海の博物館には一昨年、約1200点の写真をスキャンデータの形で寄贈していました。両者は、今年2月に相差で聞き取り調査を兼ねた写真展を開きました。父の写真の一部をパネルにし、地元の家々から集めた古い写真の数々とともに、展示されました。

その際、写真の内容を説明するキャプションパネルの余白に、書き込みがされました。会場での聞き取りをメモしたものです。

今回の写真展の会期中に、このメモが生きたことがありました。

50年前の写真と今の風景

石垣の前でおしゃべりするお婆さんたちを写した、こちらの2点(パネルは1枚ですが)。

海女研究センターの写真展の際、自分も何人か、地元からの来場者の方とお話しをしました。その中に、この2点が撮影された場所の見当がつくという方がいました。Googleマップでおおよその位置を教わりました。

それから5ヶ月も空いてしまいましたが、今回の写真展の開催中に、ようやく現地を確認しに行きました。

地図で教えてもらったのは、堤防道路から丘に上る細い坂道です。
※上のGoogleストリートビューで右手の登り口ですが、撮影車が通れないためか表示できません。

坂を登って行くと、ここではないかと感じる場所がありました。

写真を撮ってきたので、父の作品と並べて比較してみましょう。

まずは、1つ目です。

ご覧の通り左の写真が50年前、右の写真が現在です。現在の写真をよく見ると、階段の登り口と外壁の足元部分に黒ずんだ跡があります。

これは、もとの階段があった部分と、石垣があった部分の名残ではないかと思われます。

そして2つ目です。

古い写真のおばあさんの後ろの石垣や木が、現在はありません。しかし、右手の建物の入り口や外壁がまったく同じです。また、遠くにかすかに見える山の稜線も一致しているように見えます。これは間違いないでしょう。

石垣は、同じ道沿いに所々、残っていました。

手ぬぐいをかぶって杖を持ったおばあさんにはさすがに会いませんでしたが、サンダルを履いたおじいさんが歩いてきて、カメラを携えたぼくに、「ここは眺めええやろう」と話し掛けてきました。

片側が切り立つ傾斜で、フェンス越しに漁港や浜をよく見渡せました。

50年前、おばあさんたちが石垣にもたれておしゃべりをしていた目の前にも、現在と大きくは変わらない眺めがあったのだろうなと思います。

なお相差町は昔から海女漁が盛んで、減少しつつも現在の海女の数は日本一(72人※2022年鳥羽市立海の博物館・三重大学海女研究センターの調査より)です。おばあさんたちは、引退した海女さんだったのだと思います。

そのおばあさんたちは、よそ者の父も気さくに相手をしくれましたが、カメラは苦手みたいで、撮ろうとすると「ぷいっとよそを向かれた」そうです。

海女研究センターに借りたこれらの写真の展示キャプションの余白に、「みよしや」などと手書きがありました。前の写真展での聞き取りメモでした。

「みよしや」は当時から近くにあるお店の名前でした。看板は見つけましたがシャッターが閉まっていました。その日はお休みだったようです。また機会を見て訪ねたいです。


▶備忘録④に続く


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