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ストーリー・ストーリー宣言から1年 ―善村記者というメタ視点―

※このnoteはアイドルマスターシャイニーカラーズのコミュ「ストーリー・ストーリー」を読んでいることを前提に意見を述べるものです。


今から約1年前、シャニマスにおいてシナリオイベント「ストーリー・ストーリー」が開催され、シャニマスオタク達の心をかき乱した。

私はストーリー・ストーリーを「シャニマスからの宣言」であると考えている。

ストーリー・ストーリーは1コミュにとどまらない、「シャニマスというそのものをこのように作っていく」という表明なのである。

シャニマスは何を宣言・表明したのか。 私が「ストーリー・ストーリー」から何を受け取ったのかを記そうと思う。


・ストーリー・ストーリーがどのようなコミュだったか(概要)

本当にざっくりと且つ、重要であるところを押さえて概要を書く。

・アンティーカのグッドラフ・テラス(某テラスハウス的なテレビ番組)への出演が決定する。

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・番組内でウケを狙おうと高校生組3人があれやこれや頑張りさらには空回りして、その空回りを三峰が窘める(軽い説教のようなものを行う)。

・その説教の様子がカメラに収められ、「三峰、激怒!!」のような感じで、本人たちの意図しない方向へ番組が編集され放送される。

・誰かに見られるということは、それぞれの主観に評価されるということであり、それは必ずしも自らの意図したようにはいかないということを知る。さらに今回はTV番組であり、番組側はウケるために「物語性」を付与しようとする。

来てくれると嬉しいでおなじみの善村記者が三峰結華を心配し訪ねてくる。そして今回の番組がアンティーカの意図しないことであることを話す。

・アンティーカは相談をして「番組側が意図しない方向へ物語性の付与を行うならば、自らが意図する私たちを受け取ってもらえるような物語を作ろう」と考える。それは「定期試験に向けて頑張る高校生組とそれを支える卒業組」というものだった。

・テスト当日に遅刻しかけ、パンを咥えて登校というサプライズもあり、番組は成功。最後は霧子さんの「生きていることは…物語じゃ…無いから…」というセリフで終幕。


・物語の物語 善村記者というメタ視点

ストーリー・ストーリーにおいて最も重要なのは霧子さんの最後のセリフ「生きていることは物語じゃない」だ。そしてシャニマスという物語のキャラクターにそれを言わせたということが何よりも重要である。

中盤においてTV側に意図しない物語性を作られてしまったアンティーカ。そしてそのカウンターとして自らに物語性を付与させたということ。=私たちはどうしようもなく物語的消費をされてしまうことへの肯定である。それは仕方ないし構わないということだ。

そしてそれでも私たちが生きているということ自体は誰の主観にも歪まない事実だと霧子さんは言ったのだ。

しかしその霧子さんすらもメタ的に見れば「シャニマスという物語」なのである。よってそれを言わせたことにメタ的な意味が出てくる。


そこで注目したい人物が善村記者だ。

記者というのは情報を調べ、編集し、広める人である。それは番組を作り、そして放送し広めるTV側も同じと言える。(いわゆるマスメディア)

そこでついて回るのが「ウケる」ということ。情報を広める人はその情報を金にするためにウケることが必要になる。

今回のグッドラフ・テラスでは悪辣ともいえる編集を施し、物語を作ることでウケようとした。

それに対して善村記者はこう述べる。

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「私もそういうものに負けたくないから」

これは善村記者のセリフであり、それを描いたシャニマスライターからの表明だ

皆さんはアニメなどを見て「キャラクターが恣意的に無理やり動かされている」と感じたことはないだろうか?物語中盤、突如精神が不安定になり不和が起きて、終盤それが解決し一件落着。そんな物語の起伏が無理やり作られているような感覚。

それらすべてが悪いわけではないし、手法自体は正攻法であると言っていい。構造は同じでも無理やり感が無く素晴らしい作品はいくらでもある。でも今回のアンティーカのように「無理やり踊らされた」キャラクターも数多くいる。

そういったものに対して「私たちはそうしない」

「物語ではない、ただ生きている彼女たちの物語」そんな矛盾したものを描いていきたい。

そんな表明こそが「ストーリー・ストーリー」なのではないか。

よってストーリー・ストーリーはシャニマスというコンテンツ自体の方向性を示した記念碑的コミュなのである。


・終わりに ー矛盾を描くということー


「物語ではない、ただ生きている彼女たち」

「そんな彼女たちを描く」

「そんな物語」

それを描いていくという宣言から1年。

彼らはそれに応え続けていると思う。

アイドルの1人1人と向き合った丁寧なストーリーは、「こんなキャラにあったストーリー」ではなく「この状況に置かれた彼女はどう振舞い、向き合っていくだろうか」を念頭に描かれており、動かす駒ではない、存在が先だった人間としての彼女たちを感じさせる。

物語の本筋とは関係ない、人間臭く細かい描写は、彼女たちも私たちと同じように社会の中で成長しそれに伴った何でもない行動を積み重ねているんだなと感じさせる。

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1432円のものを購入し570円のお釣りをもらうということは、樹里さんは2002円を支払うことでお釣りの切りを良くしようと試みていることが分かる。なお、話の進行とは全く関係ない。

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この僅かなシーンから「甜花さんは靴を揃える(事務所では)」こと、「283プロでは来客用のスリッパが用意されている」ということが分かる。重ねて言うが、話の進行とは全く関係がない。

これらが「矛盾を描く」ことへのシャニマスがとった策だ。

これが無駄な徒労だったのか。それとも矛盾へ届きうる刃となりえるのか。それを判断するのは私たちである。

少なくとも私の脳内では、彼女たちは笑い、息をし、他人に気を遣ったり、お釣りを切り良くしようと小銭を駆使したりしている。

私の脳内ではそんな「矛盾」が現在進行形で起こり、その色彩は今もなお鮮やかさを増している。

矛盾を超えた何かへ。

不可能は可能性になったのだ。

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