『私にとっては、デパートでした』イトーヨーカドー津田沼店へのラブレター
私が小さな頃、母は第一子と私を連れて、津田沼へ連れて行ってくれた。毎週ではなく、何か足りないものを買う。という目的がないと、津田沼という都会に連れて行ってくれることはなかった。2人の子どもを連れて行けるようなところを母は津田沼しか知らなかったのだと思う。
行くのはダイエーとイトーヨーカドーだった。分離して書くと、ダイエーのB1階で昼ごはんを食べるか、経済的余裕がある時と、誰か他のお母さんと同行する場合はダイエーの2階にあった喫茶店に入る。という感じだった。だから、よそさまと同行すると、チョコレートパルフェが食べられる。という記憶だった。ただ、パルフェ類にも金額差があり、チョコレートパルフェは低価格帯で、いちごパルフェやプリンアラモードのようなフルーツが入る高級パルフェは私にとっては高嶺の花で、自分からチョコレートパルフェ以外のものをオーダーするということはなかった。子どもながらに『私は贅沢ができない家に生まれたのだから、一生高いデザートは食べられない』と空気を読み、制限をするしかなかったのだ。
メインはイトーヨーカドーだった。イトーヨーカドーへ行くのはだいたい子供服目的だった。母は洋裁ができた。しかし仕事をしていたので時間がない。あと、時代が完全に子ども服は作るものではなく買うものに移行していた。子ども服2枚で1,000円!とか3枚で1,000円!とか、今思うと
すごい激安!だったな!と思う。
悲しかったのは、おもちゃ売り場。子どもながらにおもちゃ売り場って、キラキラして見えて。でも私には手が届かない世界って、自分で知っていて。おもちゃ売り場で大泣きしながら親に「買って!買ってよ!」と泣き叫ぶ同年代くらいの子を脇目にしながら『あんな恥ずかしいことはできない』と思いながらも『あんな恥ずかしいことをしても結果的に買ってもらえるのならば、あの子の勝ち(成功体験)になるのだろうな(繰り返しやるのだろう)』と思っていた。
記憶とは残酷なものだ。
小学校入学の時、当然のようにランドセルが必要になる。父親が私に酷いことを言った。
「おまえはあいつのお古が3年後に来るんだ。それまで『風呂敷で小学校に通う』んだ」
泣いた。残酷すぎた。周りの子や第一子には当たり前に手に入るものが私には手に入らない。第一子は祖父がランドセルを買ってくれた。私には祖父はクッソ意地悪な祖父だったし、小学校入学時には祖父母ともに他界していた。どうしよう。どうしよう。日に日に小学校入学の日は近づいていく。すると、母が「ママが買ってあげるから大丈夫よ」と、イトーヨーカドー津田沼店で、いちばん安いやつを買ってくれた。もちろん牛革のものなんて高くて買えない。謎革だ。
その次に学習机だ。第一子は祖父になんでも買ってもらえたので、当時の子どもは当たり前に強化プラスチック製の机を使っていることが多かった。勉強机の面の部分がたいていアニメ的なイラストの紙が挟んであり、その上にガード的な塩ビシートが防水用に乗っかっているやつだ。自分もそのいかにも子どもが選ぶその机を買い与えられるものだと思っていたのだが。。。
「机ってものは『一生の買いものだ』。『飽きて使わないようなものを最初から買うな』」
とんでもないプレッシャーの掛け方だった。6才児にとんでもないことを仕掛けものだ。前回のランドセル騒動のこともあり、自分なりにこれは一生使えるものだ。と決めた机は
机が蓋のようになっている収納式のような学習机だった。上にあげて、強化マグネットで天板を納めるようなタイプのやつだ。値段までは覚えていない。かわいさなんてまったくなく、濃い木目調の塩ビシートが全面に貼ってあるほとんど建具のような勉強机にした。「ほんとうにこれでいいのか?ほんとうにこれでいいのか?」と何回も父親に聞かれた。ファイナルアンサーは
「一生使えるものは、この机」
そのイトーヨーカドー津田沼店で購入した学習机はセットだった椅子は壊れた。4つ車輪がついた椅子だったのだけど、1つ車輪が壊れると代わりになるものはなく、廃棄した。しかし机は現在も現役で、父親のパソコン作業机になっている。やっぱり、一生使える机だった。
ただ、小学校に入学する時って、ドレスアップすることを知らなくて。だから、小学校入学式の時点で私は貧困でいじめられる側に決定した感は子どもながらにわかった。
制服がない世界の独特の残酷感があった。残念ながら、私は敗者だった。みんなサンリオとかディズニーとかのキャラクター服を着ていることが多い中、私はイトーヨーカドーでセールで買ってもらった謎キャラクタートレーナーとか着ていて。自分でも『これはタヌキであることは間違いないのだけど、はじめて見た。。。』みたいな独特な敗北感があった。君は誰?まるで哲学の世界みたいだ。当然のように、スヌーピーやキティのような一軍キャラクターを着る子たちからすると、私が着ている謎キャラクター服は5軍でしかなく、どんどん背中は丸くなっていったが
あの時、イトーヨーカドー津田沼店がなかったら、自分はどんなことになっていたのだろうか?と考えると恐ろしくてたまらない。当然のようにお古の衣類は着ていたのだけど、高校入学するまで、津田沼という都会しか知らない状態で。15年間ずっと古物だけを着ろと強要されたかもしれない。
洋服が残念だったので、下着が大好きだった。母は私が残念な仕上がりだったのは知っていたみたいで、下着はちょっとだけいいものを買ってくれた。誰かに見せることもない下着だったけど、シュミーズが当時は好きで。下にレースが付いているものを買ってくれた。ショーツはミッキーマウスとミニーマウスのイラストが入ったものを買ってくれた。誰にも見せることがないショーツだけは1軍キャラクターだった。それは自己満足で、まったく意味のないことだった。
小学校卒業式が近づくと、またドレスアップが必要だということがだんだんわかってきた。ヤバい。うちの母親、私服で参加させる気だ。また辛い目に遭ってしまう。
「ママ、違う。私は贅沢を言っているんじゃない。卒業式というものは母親だけじゃなくて、卒業生もドレスアップして、普通の行事なんだ。私に卒業式用の服を買って!」
「それはおまえの思い込みであって、そんなことはない」
「お金を使いたくないのはわかるのだけど、私は必要な出費を言っている。必要なものを買って。と言っているだけなんだ」
結果的にイトーヨーカドー津田沼店に行くと、普通に小学校卒業式用の服は売ってあって。なんとかお安めの卒業式の服を手に入れることができた。濃いグレーの礼服を買ってもらった。その服は礼服だったけど、ジャンパースカートだったので、時々ジャンパースカートとして着ていた。ただ、セットで着る。ということはなかった。
悲しいくらいに貧乏で、刺々しい記憶しかないけど、今、大人の私は両親が愛されない子どもだった。ということしかわからない。子どもは親のテープレコーダーだからだ。
あの時の貧しい私にイトーヨーカドー津田沼店がなかったら、もっと小学校で酷い目に遭っていたことだろうと思う。中学生になると、パルコに行くことが多くなり、高校生になると、有楽町や船橋で殆どのことを済ますようになり、イトーヨーカドー津田沼店に行くことがなくなっていった。
ただ、私は自分では普通の会話で度々失笑を買うことがあった。それは
「私、小学生の頃、イトーヨーカドーってデパートが大好きだったんだ!」
というと、たいていの人は失笑した。私はなぜ自分が失笑されるのかがわからなかった。それが30代の時の派遣先で年上の女性が教えてくれた。
「hanashimaさん、イトーヨーカドーって、デパートじゃないんだよ。イトーヨーカドーは
大型スーパーマーケットなんだよ。
百貨店と一緒にしたら、マズいんだよ」
。。。もうガーン。。。でした。。。
えー!あんなに大きな建物なのに?あんな7階とかあるのに?あれがスーパーマーケットなの?だって、スーパーマーケットって
路面店で、1階建ての建物じゃないの?
。。。もうほんとうに。意味わからない。という感じだったのだけど、だんだんその意味も自分の中で理解できてきて。
たしかに、三越日本橋本店とイトーヨーカドー津田沼店は別物だ。
たしかに、松屋銀座本店とイトーヨーカドー津田沼店は別物だ。
たしかに、伊勢丹新宿店とイトーヨーカドー津田沼店は別物だ。
。。。そうか、失笑されるわけだ。
イトーヨーカドー津田沼店は7階建ての大型スーパーマーケットだった。間違いなく、大型スーパーマーケットだ。
今、大人でたいていのことは失敗しながらも学んでいて。ただ、何も手に入れることができなかった小さな私にとってイトーヨーカドー津田沼店というのは
間違いようもなく、
私にとってはデパートでした。。。
小さな私に買える値段で与えてくれたように思っています。とても百貨店には行けないような経済状況の中で、私にとっては
今でも私の中では
『イトーヨーカドー津田沼店はデパートでいいよ。人に笑われても、私にとっては
間違いようもなくデパートでした』
イトーヨーカドー津田沼店で買える値段だったら、必要なものは手にすることができました。
もう、大好きとか愛とかではなく、感謝しかない。そのイトーヨーカドー津田沼店が閉店した。閉店時に行くことも考えたが、
人混みが苦手で。。。今、身体も壊していて。行かなかったのだけど、改めて閉店したイトーヨーカドー津田沼店を観ると、
ニューシネマパラダイスみたいだった。
ニューシネマパラダイスは、一度復活する。でも、他の娯楽の普及で映画館から人が遠退く。そういうのと、似ているように感じた。
現実として、小さな私は自分の家の周りと津田沼という都会以外の世界を知ることがなかった。小さいフィールドしか知らない世界の住人だった。高校生になると、友人が都市部に住んでいることもあり、知らない世界を知るしか方法がなく、都市部を覚えることになると、突然フィールドは恐ろしく広くなった。その時に津田沼という都会は弾かれてしまったという事実は否めない。
でもね、感謝という記憶は消すことはできない。
感謝しかないんだ。
老築化?だから何?というのが、お世話になった側の本心だ。売り上げ、そんなに悪かったわけじゃないよね?みたいな気持ちがある。
私の本心と周りの人の本心は、老築化を理由にするならば、新しくすればいいだけの話なんですよね?みたいな気持ちがある。ただ
閉店しても、イトーヨーカドー津田沼店の駐車場は使えるというのは
ほんとうに老築化なのか、謎でしかない。
私は、なんにも買えない家に生まれた私にとっては、イトーヨーカドー津田沼店という存在が
救いの手でした。
愛でしかない。
ありがとうございました。
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