成功体験と隣りの犠牲者

それはほんとうに成功体験と言えるものだろうか?ほんとうは自分が気分良く過ごすために、近くにたまたまいた人を『弱い人間』と思い込ませて、何度も何度も踏みつけにして

周りはみんなわかっているのに、

本人だけがわからなかった。という話は

わりと『よくある話』だったりする。

それは学校でも、職場でも、家族でも、『よくある話』だったりする。ただ

その本人をひとりぼっちにしてやろう。と、普通の人が企みはじめたりする。その時

その『なんだかよくわからない成功体験者』は

最弱だ。誰も味方がいない。

私はこのシーンによく出会う。私が負を無理矢理請け負わされる方だ。成功体験者は気分良く私を何度も何度も『よくわからない自分の正義』で、私を

顎で使う。それを何度も何度も繰り返す。それが楽しいらしい。ただ

それをみんなが見ている。

そして、その『成功体験者』のいちばん近い友人がある日集団で『第三者としての正義』が入ると

誰一人として『成功体験を与えない』のだ。元々、成功体験でもなんでもないのだ。自分がかわいい。それだけの話で、自分で自分がかわいい。と言っていればいいだけのことなのだ。それを具体化するために

弱者を『製造する』のだ。

最初の成功体験もたいていは『身内が人工的に成功体験させてあげた』くらいの子ども騙しと言ってもいいレベルの低いもので、社会的成功とは

まったくの別物だ。

では社会的成功体験って、なんだろう?という話になると、

『少なくとも人から笑われて、悔しい思いを経験しなければならない』という共通した定義がある。

わかりやすくいうと
『人が想像できない発想』
『優しい気持ち』
『失敗しても立ち上がる力』
『笑われるほどの誠実さ』
もっといっぱいあると思うけど、少なくともこの4つはあるんじゃないかな?と思ってる。

だから、自分は何にもできない。とか、自分は無力だ。とか、それはいけない。というようなことを思い込ませることって多いけど

ある種の安全装置が働いている。という場合もあるのも事実で、私はいけないことだとは思わないです。私はまじめで誠実なことは大切なことのひとつだと思ってる。

お金持ちのフリをしている大借金王みたいなのが、わりと普通にいたりする。。。

そういうのがわかっていると、堅実さって、すごいし、生き方も美しいって思う。

クールジャパンよりも
380円のうどん屋さんの方がクールだったりする。ほんとうに。

昔、『一杯のかけそば』って話があったな。その本は買ってないので、よく知らないんですけど。

屋台ラーメンは間違いなくクールではある。見た目!不思議!衛生だけ、ちょっと気になる。

だから、「俺すごい」系とか、「私きれい」系とか、だいたい

問題がある人が多数だと私は思っている。ほんとうにすごい人は実は

普通の人の中に紛れている場合がほとんどのように

私は思ってる。

天才は大概『普通の人に紛れてる』。

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