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朝のお話

おじいちゃんは、朝起きると、大きな窓辺の椅子に座って空を眺めて、小さい声で何か言っている。天気の良い日も、曇りの日も、雨降りの日も、雪の日も、変わらずにそうしている。そう長い時間ではない。ほんの10分くらい。

そんなおじいちゃんの「朝のお話」は日常の光景の一つで、お母さんが小さな頃からそうだったそうだ。

という事は、私が生まれた時からのことなので、それが変なことだとは思った事はなかった。私も小さな頃、おじいちゃんの真似をして空に向かって話していたそうだ。ただ、私には、話しかけるべき相手が見つけられなかった。相手がいないと空に向かって話していても、何の答えも帰ってこない。だからすぐに飽きたのだろう。もうそれをしていた記憶もない。

おじいちゃんは、「朝のお話」以外はちょっと頑固だけど孫に甘い、そんなどこにでもいる普通のおじいちゃんだった。

ある日、大学の課題をダイニングで徹夜でやり、そのまま力尽き寝てしまった。
明け方、もう少しで太陽が上るという頃、一瞬だけ目が覚めた。視界の端っこにおじいちゃんが見えた。いつも通り、窓辺の椅子に座っている。多分、「朝のお話」をするところだろう。私はとにかく眠くて、そのまままた眠ってしまった。

その時、飛行機に乗っている夢を見た。
大きな飛行機じゃなくって、一人乗りの戦闘用の飛行機だ。やけに明る眩しい光の中、青い空が一面に広がっていた。ただそれだけだったが、とても美しい景色だった。

はたと気がついたらゴーッという風の音の中、マイクのようなものから男の声が聞こえてきた。その飛行機は二人乗り用で、後ろに乗っていた男が私に話しかけてきたのだった。
「寝ぼけているのか。しっかりと高度を取れ。」
ハッとして前を見た。高く飛んでいるようで、眼下に厚い雲があった。地面は雲に隠れて一切見えなかった。一瞬にして身体全体が緊張した。身体に意識がいくと、
やけに寒くて手袋をしているのに指がかじかんでいるのに気がついた。足も武者震いのようにガクガクと震えていた。

「落ち着け。全部上手くいくから。大丈夫だ。」

そう声の主が続けて言った。私はものすごい不安の中にいて今にも逃げ出したいような気持ちでいる事を思い出した。それと一緒に、私はその声の主と長い付き合いで戦友と呼ぶのにふさわしいお互いに強く信頼関係を持っている間柄なことも思い出した。喉が乾いている。どうしようもならないと分かっている不毛な会話をしようとして、私は、マイクに向かって話し出した。

「やっぱり間違っているんじゃないか?」
「今更何を言っているんだ。何度も話したじゃないか。」
ため息と一緒に帰ってきた無機質な返事は、想像したものと同じだった。

「でも、最後にもう一回だけでも考えた方がいいと思うんだ。何かこれ以外に解決できる策が見つかるかもしれない。」
「ないよ。散々考えただろう。これが一番犠牲が少なく早く解決できる。」
「少なくて早いだけじゃないか。」
「多くて長引くよりもマシだ。」
「それだけの理由でこんなことをやれるのか。お前は。」
「やるのは俺だけじゃない。お前も一緒にやるんだろう。」

目の前に広がる美しい風景が夢をより深く夢のように仕立てている。どれくらいのスピードで進んでいるのだろうか。さっきまでは目に入らなかったが、今は、数々の巨匠が描いたような美しい雲がこれ以上ないくらいの美しい青の上にある。

胸から熱いものが込み上げてきた。慌てて歯を食いしばり涙が出てくるのを必死に抑えた。全ては初めから分かっていた。自分には無理なことだったのだ。とてもこんなことは出来ない。私は慎重に息を吐いた。顔の筋肉を下手に動かせば、涙が出てくるだろう。マイクの向こうの男の顔がどうしても思い出せない。大事な事を言うのに、友である男の顔が思い出せない。でも、思い出すのを待つ時間はなかった。私は慎重にマイクに向かって言った。

「俺には出来ないって言ったら、お前はどうする。」

私は、それがひどい質問だという事を知っていた。とてもひどい質問だったのだ。マイクの向こうにいる友である男は、さっきより深くため息をついた。そして、ゆっくりとこう言って笑った。

「それも決めてきただろう。お前はひどい奴だなぁ。そっちを選ぶのか。」

急に身体から力が抜けた。そしたら、涙が次々に出てきた。我慢していた分だけ息が荒くなり、ボロボロと後から後から出てくる。私は、手袋を取り、震える手でヘルメットを取った。そして、涙を拭って空を見た。


そこで、目が覚めた。

おじいちゃんがいつもの椅子に腰掛け、静かに空を眺めていた。多分、もう「朝のお話」は終わったのだろう。おはようと言うと、おじいちゃんは驚きもせずに、おはようと言った。
ぼんやりした頭でキッチンに行き、コーヒーを淹れながら、おじいちゃんに夢の話をした。起きたばかりだからか、鮮明に覚えていて、そして、まだ夢を引きずっているようなところにいた。

おじいちゃんは何も言わずに静かに話を聞いていた。あまりにも静かだった。

そして、話している途中で、突然気づいた。あぁ、これはおじいちゃんと朝のお話の相手の人との話なんだと。それは強烈な理解で、でも私は話を止める事が出来なかった。最後まで話すと、おじいちゃんは僅かに微笑んで、こう言った。

「その男の名前はジョージ・キシモトっていうんだ。勇敢でとても優しい男だったんだ。」

その声はとても小さく、ヒンヤリするほど静かで、ぞっとするほど孤独だった。でも、全てを包み込むような、とても優しい声だった。


それから、私は、たまに「朝のお話」をするようになった。ジョージ・キシモトはいつも優しく私の話を聞いてくれる。

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