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もういない犬のこと

何年か前、通勤路を変えたことがあった。

それは、出勤時間が変わったからだった。もともと使っていた道はいわゆる裏道と呼ばれるもので、国道での渋滞を避けるために地元の人が使う道だった。でも渋滞に巻き込まれなければ国道を通る方が、その道より若干早い。信号の数も右折左折の数も少ない。以前より遅く家を出るようになった私は、通勤ラッシュに巻き込まれることがないので、国道の道を通ることにした。それは、なんてことのない選択で、私は新しい通勤路が気に入っていた。

それからしばらくして、大型連休がやってきた。観光地に勤め先があるため、大型連休の国道はいつもの10倍は混む。だからその期間は裏道を使った。見慣れた道を久しぶりに通った時、あれ?っと思った。

犬がいなかったのだ。

その犬は通り沿いの小さな一軒家の犬だった。雑種の中型犬で白い毛のはずだけど、外で飼われているので真っ白ではなく、クリーム色だった。庭が広いその家は、白い犬のために広くスペースをとっていた。犬小屋があって、横に寄り添うように木があり、その斜め前あたりに大きめの窪みがあった。日当たりがよく、犬の届かない場所には、季節によっていろんな花が咲いている気持ちの良い庭だった。犬は、夏は窪みの中や木の木陰でゴロゴロしていたし、冬になると陽の当たるところで気持ち良さそうに日向ぼっこしていた。とてもハンサムな犬で、どんな格好をしていても、凛々しく、誇らしげな顔をしていた。座って遠くを見ている姿なんかは、とても神々しく思わず手を合わせてしまいそうなほどだった。

車で脇を通るだけなのだが、ちょうど信号が近いので減速することが多く、毎朝その犬の姿を見て出勤していた。毎日、その庭のどこかにいた。たった一瞬だけど、同じ姿の日は1日もない。いろんな場所でいろんな格好をして、起きていたり、寝ていたり。背中しか見えないときもあったけど、それでも姿をみるだけで嬉しくて、今日もいい日だなと思えた。たまに飼い主さんと一緒にいるのを見ることもあった。子供のように嬉しそうに尻尾を振って飼い主さんを見上げている姿を見ただけで、良いものを見たなと心が満たされた。

名前も知らない犬だった。

初めにいないことに気づいた時、散歩かなと思った。それか、姿を見逃してしまっただけか。でも、次の日も、そのまた次の日も犬はいなかった。犬小屋と木と窪みがいつものようにそこにあるだけで、犬はいなかった。その空間はしんとして、妙に静かに見えた。大型連休が終わり、気になりつつも通勤路を国道に戻した。そして、しばらくたってから、用事がありその家の前を通った。

犬小屋がなくなっていた。

私は、犬小屋を自分で処分したことがある。だから、それがどういうことかを知っている。

犬がいなくなるということは本当に悲しいことだ。
それがどれだけ知らない犬でも、私はとても悲しい。
たとえ会ったことがない犬でも、それでも悲しい。

今でも、その道を通ると無意識にその犬がいたところを見てしまう。犬小屋はないが、木と窪みはそのままだ。そこに私は、あの凛々しい犬の姿を思い出す。

一度も挨拶をしたことはなかった。私の匂いを嗅いでもらったこともなければ、身体を撫でたこともない。遠くから一瞬見ていただけの犬だった。

それでも、私の人生に小さいけど大きな喜びを与えてくれていた。犬はただそこにいて、生を全うしただけだった。瞬間瞬間、その犬はただそこで生きていた。

犬がそこにいるということは、本当に愛に溢れることだと思う。
それがどれだけ知らない犬でも、たとえ会ったことのない犬でも、どこかで犬は生きている。なんて素晴らしいことだろうと思う。

すべての犬に手を差し伸べることは出来ないけど、せめて触れ合うことのある犬に、その一瞬だけは全てをかけて愛を伝えようと思う。返しきれないくらいの愛をすでにもらっているのだから、私の一瞬くらい何度でも犬に捧げたい。


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石井真秀子。本屋をしたり、文章を書いたり。愛と直感で生きている。 member of tenten. HOOKBOOKSとまほこのHP 「MAHOROBA・まほろば」https://mahoroba.one

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