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父の日に父になった父

父は漁師だ。
75歳を過ぎても、まだ海の上にいる。
昔は遠洋に出るマグロ船に乗ってたので、会うのは半年に一度だった。

小さい頃『父の日にお父さんの顔を描きましょう』と言われたが、『そもそもお父さんとはなんだろう』くらいに思っていた。
そのくらい父が家にいることはなかった。
(ちなみに先生が悪戦苦闘して『メガネかけてるかなぁ?』『ネクタイは?』とか聞いてくれたが何の事か一切わからず、適当に相槌をうってメガネにネクタイの誰だか知らない人の顔を描き、母が『コレは見せられないなぁ』とぼやいていたのを覚えている)

小学生くらいになって初めて、忘れた頃にやってきて何だか偉そうにしているおじさんが『お父さん』なのだと知った。
いや、『お父さん』と呼んでいたはずなのだが、実感がなかったんだろうな。

無口で子どもとマトモに会話もせず、
何だか一人だけ美味しい物を食べ(後に遠洋漁業だと船の上では食生活が偏りいつもかなり我慢をしているためと知る)、
たまに車で出かけるぞと言うも停泊している船の前に停められ『危ないから車から出るな』と言われ(今なら大問題である)、
お利口にしていなければいけなかった父がいる二週間は子どもには辛い時間だった。

父と母の仲は、自分が中学生くらいになると険悪になっていた。
詳しくは知らないが、どうやら乗っていた船を降りたようだった。
毎日家にいて酒を飲み、機嫌悪く、何かというと怒鳴られた。
毎日毎晩喧嘩で怒鳴り合い、姉と息を殺して聞き耳を立てていた。
父は浮気をしているようだった。
心を病んだ母は家の事が一切出来なくなり、妹と二人、半年ほど祖母の家に預けられた。

とにかく父が嫌いだった。
またどこかで雇ってもらい父が家からいなくなって、心底ホッとした。
あんな親なら要らないと思った。
多分今でも思っているんだと思う。
父に会いたいと思った事は、物事ついた頃からない。

父が最後に乗っていた船が、マグロ漁を辞めて解体された。
解体されるドッグへ船が移送される時、沿岸沿いを名残惜しく車で追いかけてドッグまで行ったそうだ。

船頭をやっていた父は、沢山の部下がいて、さらに現地で雇う外国人労働者に『マスター』と呼ばれ英語で会話している、と知ったのは大人になってから。
海図を読み、何だか私にはわからない沢山の計算や、書類の束をいつも分厚いノートに挟んでいた。
仕事が好きだったのだろう。
ふーん、なんだ。やるじゃん。
そう思った記憶。

父の日に何かあげた事は一度もなかった。
出かけた先でお土産を買っても文句ばかり言う。
誕生日だからと思っても、要らないとぶっきらぼうに言われる。
だからずっとあげた事はなかった。

今年、何故かふと何か送ろうかと言う気になった。
インシュリンを打ち食事制限をしている父。
断酒会に行き、お酒を辞めた。
陸はつまらないと、小さな船を買い、近場で漁に出ている父。
最近父の物忘れがすごいと、母がぼやいている。
親孝行、したい時には親はなし
とか世間では言うではないか。
今しかできないかもしれない、と、父の日にステーキ用に松阪牛を送った。

母曰く、たいそう喜んで、近場に住む叔父に分けてあげたそうだ。
そして、母と半分こして食べたと。
(父と母、二人で食べれるように二枚送っていたのだが、一枚譲ってしまった様子)
まぁなんだ。
嬉しくて嬉しくて、叔父に自慢しに行ったんだろうね。

家族のために辛い環境で身を粉にして働いて、勉強し直したいと言う私の我儘にポンとお金を出してくれ、知らない間に嫁に行っても特に怒るわけでもなく理解してくれた父。
ちゃんとお父さんをやってくれていた。

やっと私の中で『お父さんなんだなぁ』と、実感の湧いた父の日。
思い出すのは子どもの頃、車で寝てしまった自分をふわっと抱き抱えて降ろしてくれた父。

来年も美味しいお肉、送るね。

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