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『花束みたいな恋をした』を「エモい」だけで終わらせないで

「タイトル通り、恋人たちの綺麗な思い出話」
「詩的な作品だった」
2回目の鑑賞後、興奮冷めやらぬ状態でTwitterで検索をかけると、
見かけるのはそんな感想ばかり。
この人たちはみんなパンピなんだろうか、大学生の頃の”あの感覚”を経験したことないんだろうかって、びっくりしてしまうくらい。

初回で観た時は私もそうだった。
だけれど「ただ綺麗だった」と
それだけで言い切ることのできない違和感・もやもやがどうしても私の中に残っていて、その正体をつかむために、同じ作品を見るために2回も劇場に足を運んだ。

そして、なんとなくだけれども掴めた。
この作品は、すべてのサブカルカップルを”バールのようなもの”で殴ってじわじわと瀕死に追いやる作品だ、と。



大学生の頃(もしくは今でも)サブカル系に足を浸かっていると自覚のある皆さま、一度は(もしくは今でも)思ったことはないでしょうか。

―――――私は他の人とは違う、と。

―――――普通の人にはない、”私だけの感性を持っている”、と。

物語の主人公である絹ちゃんと麦くんもまさにそのような2人。
誰もが当たり前に受け入れている(であろう)じゃんけんのルールに疑問をもったり、ガスタンクが好きでロードオブザリング王の帰還と同じ尺のムービーを撮ってしまう麦くん。
パンを落とすときは毎回バターを塗った面が床についてしまう人生を「そんなものだ」と受け入れながらも慎ましやかに生きていて、押井守を認知していることは広く一般常識であるべきと考えている絹ちゃん。

そんな2人はお互いカラオケの後、終電を逃した先で時間をつぶすために入ったカフェで、押井守さんを見かけたことをきっかけにお互い惹かれてあっていく。

居酒屋さんから2人が麦くんの家に向かう途中、絹ちゃんはずっと理解できないことがあって、と「紙は石で破けるのに、パーがグーに勝つなんておかしい」というじゃんけんのルールへの疑問を麦くんに伝える。
そしてそれはそのまま、麦くんも幼いころよりずっと考えてきたこと。

かたや麦くんの家に上がった絹ちゃんは、彼の本棚を見て「ほぼうちの本棚じゃん」と呟く。

きっと、2人は「ほかの人とは違う価値観を持っている私と、趣味嗜好思想が同じだなんて」と運命に近しいものを感じたのかもしれない。

その後、価値観の共有共感を経て、2人は4年ほど月日をともにしていく。
作中ではその過程が丁寧に描かれていて、2人が同じ時間を楽しんでいること・大切に大事に感じていることが直に伝わってくる。映像としては恐らくほんの数十分だったのだろうけど、2人が過ごした時間の密度は観ている側にもしっかりと伝わってきた。
特に2人が履いている白いスニーカーに視点を当てることで、2人が同じもの(価値観や思い)を持っているんだということを表していて(と私は思った)、本当にすごい演出だなと2回見ても思った。

しかし、麦くんの就職を境に、関係は綻びはじめる。

「17時定時で帰れるから、仕事しながらでも絵は描ける」と就職後に嬉しそうに話す麦くんを見て、なんて分かりやすいフラグなんだと思ってしまったが、当然のように定時で帰れるはずもなく、毎日20時帰宅。休日勤務。
絹ちゃんとは生活時間がずれていき、約束していた劇もゲームも一緒に楽しめない。

ついには麦くんの務める会社の取引先の運送ドライバーがトラックを荷物事日本湾に捨ててしまう事件も起きてしまい、麦くんと絹ちゃんは口論に。

取引先につば吐かれて死ねと言われたこともあるという麦くんに、
「そんなのおかしいよ、そのひとはきっと今村夏子のピクニックを読んでもなにも感じない人だよ」と絹ちゃんは返す。しかし麦くんは「もう俺も何も感じないのかもしれない」と表情なく告げる。

2人の喧嘩のシーンは、劇中の辛いポイント1位に入るほど見ていて辛い。
”ほかの人とはちょっと違うんですよ”という大学生活を送ってきた麦くんが、社会に揉みくちゃにされてごく普通なありきたりな人間になっている、
以前絹ちゃんのお母さんが言っていた「お風呂に入るみたいな社会人生活」にどっぷり浸かっている、
というのがはっきりと表れているシーンだから。
そしてこれこそが、鑑賞しているすべてのサブカル人間に一撃をくらわすバールのようなものだと私は思う。

あとこの喧嘩の後に、玄関先に並んだ靴を映す描写もすごい。
2人の関係がぎくしゃくしはじめてからはほとんど靴の描写がなかったのだけれど、喧嘩の後に映し出された玄関に並んでいたのは、絹ちゃんの黒いパンプスと麦くんの黒いローファー。
2人が同じものを共有していないということを表すだけでなくて、社会に(黒く)染まってしまった、みたいな風にも受け取れて、私はこのシーンを観ていてとても心が抉られました。
鑑賞していた皆さまは今頃ちゃんと生きていらっしゃいますでしょうか。


特別だった自分が汎用になるまで を自然と描いている以外に、
あともうひとつ、この作品で面白いなと感じたところがある。
それは、男女の価値観(視点)の違いも区別されてあらわされているんだろうな、というところ。
それが顕著になるのは、麦君の先輩が亡くなってしまったシーン。
麦くんたち男性側からすると、先輩は夢を追いかけていた漢気溢れるカッコイイ先輩だったのだけれど、絹ちゃんたち女性側からすると、恋人には暴力を振ったり、お酒を飲んだら女の人を口説いたりと印象の良い人間ではなかった。
また、絹ちゃんと関係が悪化していく描写では、麦くんは絹ちゃんに「してほしいことある?」「俺そんなこと聞いてないんだけど」「俺が働くから家にいればいいじゃん」といったセリフを言っていて、絹ちゃんを自分より下に見ていたり、自分の所有物にしようとしている男性のありがちな部分も出ている感じがした。

また、ひそやかに生きていると自負している絹ちゃんだけれども、大学時代にはカラオケ屋に見えないカラオケ屋さんでIT企業の社長の集まりに参加しているし、歯医者の事務員時代もコネを得るために同僚と遊びに行っているし(その最中に麦くんからの就職決定の電話がきたとき、私はとても複雑な気持ちになった)、派遣としてイベンド会社に転職した時も、社長の加治さんと怪しい雰囲気だったり、女のしたたかさみたいなものが見え隠れしていて。だけれど、この映画はそれをうまく隠しているというか、いやらしさが全く感じられなくて、それがこの映画を「綺麗だ」と評価たらしめている技法なのかなと思った。
(このご時世に男女の違い~みたいなことを言うのはナンセンスかもしれないけど)

ちなみにそういった絹ちゃんと対比すると、
別れた後に2人でタピオカを飲んでいるとき、「実際1回くらい浮気したことあったでしょ」と尋ねる絹ちゃんに対して全力で否定をする麦くんや、
電車のなかで2人がばったり遭遇した際、全力の笑顔で手を振っている麦くんがいかに一途に絹ちゃんを思っていたかっていうのがより浮彫になってきて、ラストで麦くんが必死に絹ちゃんを引き留めようとする姿を「引き際の悪い男」なんて形で見れないんですよね。
そもそも麦くんは麦くんなりに、絹ちゃんと一緒にいたいと思っていたが故にちゃんと将来のことを考えるようにもなったわけですし。(...ですよね?)
(ちなみに電車でばったり遭遇した際、絹ちゃんは張り付けたような笑顔で小さく手を振り返していたのが本当にこの女...という感じだった)


そして物語終盤、ファミレスで別れ話をするラスト。
あの日の2人と同じ男女が、あの日の2人が座ったのと同じ席で、あの日の2人と同じような会話をするという、(恋人としての)絹ちゃんと麦くん2人のはじまりと同じ描写が描かれていて、それを見た2人(というか麦くん)が、恐らく薄れつつあった大切な記憶・感情を思い出し、お互い涙を流し抱き合うという綺麗な(関係の)終わり方をします。

お互い最後は笑って別れたいという2人の気持ちが叶えられてよかった、
すれ違ったまま関係がこじれなくてよかった、
喧嘩のシーンで心を抉られえていただけに、これ以上辛いシーンを目にしたくないとおびえていた私が安心したのもつかの間、
最後に爆弾が投下されます。

ストーリーの冒頭、麦くんは「じゃんけんのルールが理解できない。だってパーがグーに勝つわけがないじゃないか」という価値観のもとに生きていた。
だけれど、2人が別れた後、バロンをどちらが引き取るかを決めるじゃんけんの時、麦くんはパーを出して勝った。
絹ちゃんが悔しそうな顔をしつつ「どうしてパーを出すの」と尋ねると、帰ってきたのは嬉しそうな笑みと「大人だから」という台詞。
そこには、あの頃の"普通とはちょっと違っていた(と自負していた)麦くん"はもうどこにもいなくて、関係が丸く収まったあとのほっとした気のゆるみもあり、あまりの皮肉に私は笑いが堪えきれませんでした。
これはずるいです。

でも、そうはいっても、たぶん核の部分は変わってないのかもしれない。
お互いまだ通じ合っている部分はあるのかもしれない。
そう思えたのは、5年後にカフェでお互い偶然出くわした後に、2人が去っていくシーン。
カフェのあった階からエスカレータで降りたあと、2人は今の恋人と一緒にそれぞれ別の方向へ歩きだしますが、絹ちゃんは振り返ることなく手だけを振って別れの挨拶をします。麦くんももちろん振り返ることなく歩いているはずなのでその合図に気付くはずがないのですが、分かり切っていたかのように麦くんも振り返ることなく手を振り返す。
(多分ここは手を振ったのではなく、振り返したんだと思う。)
ここは2人の5年間が築き上げた信頼関係(ほかの良い表現が出てくるまでこれで)・かつて同じものを共有していた同士の様な関係性があらわされているようで、本当に良かった。

その後は、元恋人にたまたま会ったという偶然の出会いをきっかけに、それぞれの家でお互いのことを思い出します。そこには懐かしさや楽しい思い出だけが溢れていて、絹ちゃんが別れ話の際に言った「楽しかった思い出だけ大事にとっておくから」というのがちゃんと実現されていたのと、ラストもラスト、麦くんのくすっと笑える奇跡もあって、温かい気持ちで見終えることができました。






ところどころ見たくない現実やちょっとした皮肉が混じっていて、
手放しに綺麗な映画だと言うことはできないけれど、
世の中にいる人間をきちんと観察されていて、それが作中の登場人物として違和感なく現わされていて、
汚い部分はうまくぼやかされ、きれいな思い出はそのまま綺麗に表現された
すてきな映画だと思います。


....なにより、私自身も大学生の頃「バールのようなもの」という言葉が大好きでしたからね!!!きのこ帝国とか多和田葉子さんとかワクワクしちゃいますよ!!もう自分を見ているかのようでした!!やめてほしいですね!(褒めてます)
他にも”一般人が聞く曲の代表格がワンオクだった”とか、きのこ帝国から羊文学に移ったあたりの時代の変遷の観察もすごいなぁとか語りたいことはあるのですが、控えます...。

ちなみにタイトルの考察ですが、
作中にあった恋の生存政略ブログともあわせて
「もらったときは華やかで美しくて嬉しい(けれど、花瓶にさして時間が経ってしまえば枯れてしまう)」ような恋、なのかな、とちょっと思いました。
他にも良い考えがあったらぜひコメントください~。

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