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小樽運河が今年100年に〜運河論争を経て

小樽の観光名所、小樽運河が今年完成から100年を迎える。1923(大正12)年、12月27日。同運河は着工から9年かけて完成した。完成時の規模は全長1,314m、幅40m。石炭の積み出しや、内陸部への物資供給の中継港として発展した小樽港で、沖の大型船と岸壁の間を貨物を載せて往来する「はしけ」の停泊場所としての役目を担った。

小樽港の繁栄と小樽運河の誕生は、地元・小樽の食文化にも影響した。腹持ちの良い食べ物を求める港湾労働者向けに餅屋が増えた。小豆や砂糖の集積地でもあったため、関西や北陸から菓子職人が移り住み、各地の一流職人によりいい菓子や餅がつくられた。それが老舗の味となり、今も市民に愛されている。

ところが、1960年代に入ると、小樽は斜陽の時代を迎える。苫小牧港が台頭してきたからである。苫小牧は首都圏への海上距離が近く、臨海工業地帯も造られた。一方、世は車が主流の社会となり、小樽を通る国道5号では慢性的な交通渋滞が発生した。このころ、運河を全面的に埋め立てる道道臨海線の建設計画が持ち上がった。

1966(昭和41)年、市が都市計画を決定した。その後、「小樽運河を守る会」が発足。埋め立て反対の署名は約10万筆も集まった。運河論争を経て、最終的には折衷案となった。運河は1986(昭和61)年、南側の半分が埋め立てられた。北側の約490mだけが残った。

小樽市の観光客数は、1999(平成11)年度の年間973万人をピークに年700万人程度になっている。このうち9割近くは日帰り客である。課題は、こうした客を夜間観光に、そして宿泊客につなげることである。仮に運河が全面的に埋め立てられていたら。これほどまでの観光地になっていなかった。人口減少も一層進んでいたかもしれないとは、市民らの感想である。50年前の慧眼が今に活きている。

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