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ハッピー家族バイアス

年末特有の「家族行事」が苦手だ。

18で実家を出てから、もうずっと年末年始を地元で過ごしてないし、過ごしたいと思ったこともない。

今好んで一緒にいる私の周りの人たちは、「お正月くらいは家族と」とか「親孝行を」とか「血縁者とのつながりを」とかを強要しては来なくて、居心地が良い。けれど、「年末年始は何するの?」「帰省しなくていいの?」なんてふとした言葉にやられたりもする。

“年末年始" くらいは、“家族と” 過ごしたほうが良いのか?

その規範的なものはどこからやって来るんだろう。

きっと私や妹は、かつて年末年始の家族団らんみたいなものを経験しているのだと思うけれど、どう頑張っても思い出せないし、特に思い出したくも嫉ましくも羨ましくもないし、彼女も特に覚えてないと言う。思い出されるのは、ネガティブエモーションばかり。


私にとって2019年は、私 たち を囲んでいた「家族」という社会が、奇妙なものであったこと、しんどい瞬間がたくさんあるタイプであったこと、どうやら “普通” ではないようだという事を初めて実感した年だった。(そもそも普通とは?と思うけど話が逸れそうなので我慢)モヤモヤとしながらも見ないことにしてきた事実を、ネガティブなものとして認識してもいい、ということに気付かされた。ある意味、受け入れることができた年だったのではないかと思う。やっと、やっとのことで。

念のため断っておくと、私は不幸だな〜とか不運だな〜とか思ってないし、むしろ不遇だと言ったらだめだ!という暴力を浴びてたタイプ。それに私の「家族」はよく出来ている。生まれてから今日まで同じ両親は目に見えて存在するし、家があるし、学びたいと思う私は学び続けることが出来ている。

私は不運だ なんて言いたくもないし、悲劇のヒロインにもなれない。

“両親がいて、収入がいくらあって、貯蓄がいくらあって、1つの家に住んでいて、食事にも困らない。 ”

そんなパッケージというか、見える客観的事実だけで、「大丈夫」なんて第三者が言ってはいけない。という気持ちは人一倍強いらしい。今の同期と出会って分かったこと。大切にしたい。

前、好きだった授業で先生が「“ちがう” を前提にした多様性論ほど悲しいものはないよ」と言っていたのを思い出したりした。

多様だよね、違うもんね、しょうがないね、おわり。ってマジョリティ側が言い切ってしまっていいんだろうか、って話。今になって、スッと入って来たり。

きっとこの呪縛からは一生解かれないんだろうな。

なんてことは、何度も何度もループ済みで。普段は何食わぬ顔して生きていて、無かったことにして生きている。もしかしかしたら、すべて幻想なんじゃないか、なんて。


去年も今年もきっと来年もその先もずっとも、帰省の足取りはふわふわしてる。久しぶりに友達と会えるわくわくとリアルの間でね。

まあいいです。それが私をつくっているものでもある。絶対変えられないもの。当たり前とか王道とか普通とかないからね。


今年はもっともっと、修論と言う名の私の中の問題意識とぶつかっていきたいと思う。いかざるを得ない。笑

私は絶対に「理解したよ、おわり」なんて言いたくないし、見えるものだけで決めたりしたくないな。

見えないから、無いことにされているそれらを、自由にさせられたらいいな、と。

ここ4年くらいをかけて、私は タフ であることを目指してきたから、間接的に、たまには直接的に、「あなたのやっていることは時間とお金の無駄」「普通はやらないよ」なんて言われても今は全然刺さらないし、毎回真っ直ぐに落ち込んだりしないよ。でも、悔しいな、悲しいな、というノイズはたくさんある。それが私の原動力でもある。

精一杯の結果、誰かの 生きてる を肯定できたらいいな。大きい目標です。


今年も、たくさん分からない悔しいと言いながら、誰よりも何よりも人間らしく、いつもよりちょっと丁寧に、悩んで考えて、生みだす人になりたいです。

総じて、今年は修論がんばる!たのしむ!です☆彡

#2019 #2020 #家族の話

肯定されたくてたまらない と思いながらギリギリ生きています。