心理学検定 A領域 歴史② ヴント以降~

臨床心理学 発達心理学 社会心理学

ヴントの心理学以降を、 それぞれをちょっと押さえてみようと思います。

 まず一つ目の臨床心理学

 この臨床心理学っていうのは、精神的な変調や異常を持つ人 についてなんですが、ヨーロッパ社会においては長い間、治療というよりは処罰の対象だったみたいです。例えば、魔女として扱われていたこともありました。

 一方、フランスでは、フランス革命1789年のに前後して、ピネルに代表されるような 精神病者からの鎖からの解放が行われました。それ以降フランスを中心に、精神に異常をきたすことのメカニズムの解明、それと治療法の確立が同時に並行しながら進んでいくこととなったようです。 フランスのシャルコーは催眠術を用いることで精神病だったり、神経症を治療しようと考えていました。シャルコーの元には ビネ、フロイトなど多くの研究者が訪れて大きな影響力を持つことになりました。知能検査を開発する以前のビネは多重人格や暗示性について興味を持っていました。そしてフロイトが、ブロイアーとの共同研究を経て精神分析の大気を作り上げていくのです。

発達心理学

そして発達心理学についてです。

心理学的観点から乳幼児に関心が持たれたのは、19世紀半ばのことです。以前までは子供は教育の対象としてしか興味をもたれてなかったようです。

 経験主義はイギリスで発展した考え方で、その代表者である政治学者として 有名なロックは、心は、生まれつき何の特徴もない白紙、と仮定することを提唱しました。 たとえ質量とともに無尽蔵に思える知識であっても、その源泉は生後の経験であるとロックは考えていました。 そしてフランスのルソーは「エミール」という本を子供の生得的な性質を善であるとして、自然の計画にした従わせることが子供の成長にとって重要だと提唱しました。 その後、子どもの実態を観察によって理解しようとする考えが広まりますが、そうした考えを持ったのが、あの進化論で有名なダーウィンです。 彼はビーグル号に乗って世界中の動植物を観察した結果をまとめて進化論を提唱しました。 それと同様な方法を使って自分の子供の観察を行ったんです。

ダーウィンの観察が心理学的な論文として発表されてそれが大変大きな反響を呼び子供に対する科学的研究のきっかけとなったんです。

そしてアメリカの心理学者、ホールは、ドイツのヴントのもとで学んだこともある初期の心理学者ですが 彼はダーウィンの影響を受けて乳幼児の研究を積極的に行ったということです。子供の身近な観察者である親や教師に観察を依頼して、そのデータをもとに子どもの心理学的実態を明らかにして行きました。これは児童研究運動として知られます。このようにして児童心理学は心理学の一部として成立しました。その後発達心理学には二人の天才が現れます。まず一人目が、スイスのピアジェです。

 ピアジェという人は、子供の認識に焦点を当て、その成長・変容過程を研究しました 。もう一人はロシアのヴィゴツキーです。ヴィゴツキーは文化や社会の影響を考えた発達理論を組み立てました

社会心理学

そして、三つ目の社会心理学についてです。

 ー社会と個人の関係を考える社会心理学ー 

これは19世紀半ば以降に発達してきました。民族精神の研究を行う民族心理学がドイツで、群衆や模倣に関する集合心理学はフランスで、それぞれ取り込まれたんです。イギリスではダーウィンの進化論をもとに、社会の形成を考える風潮が現れました。 これを社会ダーウィニズムといいます。

 注目すべきは、近代心理学の父と呼ばれるヴントが民族心理学にも関心を持っていたということです。 ヴントが晩年に民族心理学に関する本を出版しています。ヴントは、人間の高次の精神機能については、 実験で感覚を研究するのとは異なり、人間が作り出したものによって理解が可能であると考えていて、言語、法律、社会 歴史、文化、慣習、宗教、神話といった分野について、人間精神の理解のために考察を行ったのです。

この民族心理学は、今で言うと文化心理学にあたるものはないかと考えられています。 アメリカにはヴントと並ぶ心理学の父であるジェームズがいて、自己を「I」と「me」の二つの側面から考えることを提唱しました。主体から見た自己と、外から見た客体として見られる自己を区別したこの考え方は現在に至るまで、自己を心理学的に考える時の重要な概念になっています。

ヴント以後の心理学 

ー19世紀末のアメリカにおける心理学ー

アメリカでは近代心理学成立以前に精神哲学が注目を集めており、その内容に、ドイツから近代心理学の内容が入り込んできました。ジェームズはハーバード大学で医学・生理学を学んだ後、同ハーバード大学で生理学的心理学を担当するなど 近代心理学の紹介に努めました。ジェームズの考え方の基本は機能主義であり、人間の習慣がどのような意味を持っているのか どのように生活で機能するのかなどを研究しています。この機能主義はこれ以降もアメリカ心理学の特徴となりワトソンの行動主義へと繋がっていきます。

 ヴントの実験心理学は、断片的な刺激を実験参加者に与えてその反応を取り出す傾向があったため要素主義と呼ばれていました。 ヴントの心理学の忠実な後継者であるティチナーも、アメリカで教鞭をとりました。 彼はイギリスからドイツのヴントのもとにやってきて、そこで心理学を学び 、アメリカのコーネル大学に職を得ました。 ティチナーの学説はヴントの要素主義的な面を強調したものでした。

また、ヴントの心理学実験において厳密な実験条件の統制が重要であると考えていて、実験室においていかに実験を行うかに関するマニュアルを実験心理学という本として出版しました。

 またウィトマーはアメリカで心理学を学んだ後に、ドイツに留学してヴントの下で博士号を取得し、 帰国しました 。その後ペンシルバニア州立大学に心理学的クリニックを作りました。

そこで彼は広い意味での学校不適応時や学習障害児を対象に実践を行っていました。さらに彼は、そのクリニックでの活動を大学院単位として認める制度をつくり、研究と実践をバランスよく遂行する大学院を整備しました。

アメリカで臨床心理学の資格などが早くから整理されていたのはウィトマーがヴントの下で心理学の内容とカリキュラムの重要性を学んだからだと思われます。

ヴントの心理学は意識を対象として実験という手法を用いて展開したことがその大きな特徴です。 しかし心理学を学ぶ人たちが増えると心理学の可能性は広がっていきます 。具体的には無意識を重視した精神分析、そして全体性を重視したゲシュタルト心理学、 また行動を重視した行動主義が生まれ、心理学は対応に発展していきます

まず精神分析についてです。

 精神の変調や狂気は多くの国や地域で 長い時間多くの人々の興味を引いていましたが、有効で決定的な対処法は今日に至るまで確立されていません。神経症と呼ばれる軽度の精神変調を扱い、その治療法を提案し人間発達理論理論や人間観に至るまで大きな影響を与えたのは精神分析です。

 ジークムント・フロイトはウィーン大学医学部で学びました。 ユダヤ人であるために大学教授になることを諦めた彼は、開業医となったんです。フロイトが神経症ヒステリー患者を治療として最初は睡眠に注目したのですが、後に自由連想法を開発し、さらに夢に注目しました。 「夢の解釈」は彼の初期の重要著作です。その後フロイトは意識の部分(これは、意識ー前意識ー無意識)というものを唱えました。またさらに、自我の構造( 超自我ー 自我ーエス)に注目し、自我防衛機制について様々な種類や機能を提案しました 。

また、フロイトは性エネルギーを人間を駆動する力として重視し、「リビドー」という概念によって説明し、リビドーの発達には幼児経験が重要であることを示唆しました。 また、過去の性的な欲望が抑圧されることによってそれが多くの症状の原因だという汎性欲説の立場を取りました。つまり、リビドーが抑圧されることそのことが神経症を引き起こすとし、抑圧をなくすことが治療の意味を持つと考えたのです。

  そしてフロイトにはたくさんの弟子がいたものの、多くは離反して行きました。初めの方の重要な弟子として劣等感に注目した個人心理学のアドラー 、そしてもう一人、分析心理学のユングなどがいます ユングは人間の関心が主に外界に向くか内界に向くかに注目して外向型と内向型を開ける性格の類型論を提唱しました。

フロイトの理論は、誕生後の人間関係を重視した点で経験主義的であり、そしてフロイト自身は生物学的な視点が強かったのですが、新フロイト派などは社会や文化の影響を重視しながら精神分析理論を継承しました。 自己同一性理論のエリック・エリクソンはその代表的な人物です。

 

ゲシュタルト心理学

そして、ゲシュタルト心理学にいきます。

 ゲシュタルト心理学について、ヴントの要素主義的な心理学に対して 人間が動きや形をどのように知覚するのかという問題に焦点を当てたのがゲシュタルト心理学です。 音楽を聴く時一つの音だけを知覚することはほとんどなく、前後の音との関係でその質を判断します。この場合、人は個別にその線を見ているのではなく動きを見ていることになるというのがゲシュタルト心理学 を提唱したウェルトハイマーの主張です。

ゲシュタルト心理学派にはチンパンジーの洞察学習を研究したケーラーや社会心理学者のレヴィンがいます 。レヴィンは社会問題を解決しながら行うアクション・リサーチという研究スタイルを提唱し 、「よい理論ほど実践的なものはない」と強調し、心理学者が差別などの具体的社会問題に関わることを奨励しました

行動主義

 そして行動主義についてです。これはヴントが研究対象としていたような意識のような曖昧で目の見えない現象よりも、行動に注目することで人間を研究しようとするのが行動主義です。機能心理学の中心地であったシカゴ大学で心理学を学んだワトソン は、パブロフの条件反射の影響を受け、心理学は行動のみを行うべきだと構造主義宣言を行い、多くの心理学者の支持を得ました。 彼は乳幼児の観察を行い恐怖などの感情も後天的に学習されるものだと考えるようになりました。有名なアルバート坊やの事例です 。初めは怖がらなかった白いネズミを大きな音と共に子供に提示するとやがてそのネズミ自体に恐怖を抱くようになるのです。 感情が学習されるということは、消去も可能ということを意味しますからワトソンの行動主義は 行動療法という応用領域を作り出すことになりました 。

ワトソンは若くして学会を去り広告業界に 転身にしたこともあり行動主義は他の人々によって大きく発展を遂げました。

 ワトソンの行動主義は刺激と反応の関係を重視する行動主義であり古典的行動主義で呼ばれるのに対して、新行動主義がした勃興したのです。

 ハルは、刺激と反応の間の媒介変数として習慣強度、反応ポテンシャル、動因などを挙げ、強化の動因低減説を提唱しました。

 トールマンは期待や仮説信念、認知地図といった、 心理的な媒介変数を導入して行動を説明しようと試み、認知心理学への成立へ道筋をつけました。 

新行動主義のもう一人の立役者はスキナーです。彼はレスポンデント(パブロフ型の条件付け受動型の条件付け)とオペラント(自発的行動の条件づけ能動形の条件付け)の二つに分けることを提唱し 、彼自身は主にオペラントの概念を主に扱っていました。

オペラントというのは機能性を持った行動という意味であり、主体が環境に働きかける、機能するということを含んで意味しています。

 行動主義が研究する学習というプロセスは、 後天的に何かを獲得するメカニズムについて扱うものです。行動が学習されたものであるならば、それをなくすことも可能ですから、構造主義の考えに基づいて行動療法という心理療法が生まれました。その主な提唱者は、アイゼンク、や、スキナーです。

ワトソンの行動主義的な考えは、神経症的な行動を消去する行動療法に生かされました。 スキナーの行動主義は行動の生起を変えることができるのでー重度障害者の行動療法(行動形成)などに応用されることになりました。

(次の記事に続く・・)

次回で、日本の心理学の歴史を押さえて、

歴史の、単元は終わりになりそうです。

歴史の大枠ストーリーは掴んだと思うので、

歴史については、後は問題集と、一問一答集

で知識確認して終えられるかなー。

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