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ルソーな怒り

いいかげんな仕事を引き継いでおいて、こちらが直そうとすると、したり顔で意見してくる同僚に腹をたてました。
だからいって怒るのは自分の評価を下げると思う一方で、聞き流すには違和感が大きすぎて、慣れないアンガーマネジメントはなかなか難しいものです。
気分を変えようと努めたり、時間をあけてみたり、視点を変えてみたり。けれど、客観的になろう、怒ってはいけないと思うほどに、視界が狭まるように感じます。

そもそもわたしは怒りとともに育ってきました。理不尽な大人たちに対する怒り、世の中や、時代に対する憤り。それらは誰に向けることはなくても、心を燃やすエンジンでした。怒りは成長や転換のチャンスになってくれた。なかったことにはしたくない。私はけして、怒る人が嫌いではない。できれば、人に対してではなく、物事に対しての怒りであってほしいけれど。全く怒らない人なんて気持ちが悪い。人は怒っていい。怒りは人のためになれる。

以前、怒りの感情をカラバッジョやゴヤの絵画で例えてみましたが、今日の怒りはまるで、フランス時代のルソーの絵のよう。言い知れない違和感、手の施しようがない自己完結、明滅する不協和音と同時に、たしかに美しいと言えなくもない何かがあることが実に悔しくて、これを前で本気で怒る者はさぞ滑稽だろうと思う。

高揚という薄い壁を挟んで、怒りとワクワクは意外と近くにある。今日も怒りという絵画を、自分という美術館のコレクションに一石を投じる一枚にしたい。

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