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彼の噛みあと 第10話

夕暮れの頃、園子と祖母は街から船に戻った。
エレベーターで10階に上がり、部屋に続く廊下への角を曲がると、遠く前方に彼の後ろ姿が見えた。奥さんと、どこかで合流したのか秘書の男性と3人で歩いている。
(‥‥あの方向ということはスイートルームなんだろうな)
と思った。
先日のフォーマルパーティの時は、奥さんと一緒にいるところを見ても特に淋しさは感じず、彼と会えたことだけが嬉しかったのだが、今日は心が締め付けられるような気がする。


彼は、奥さんと一緒に、素敵な船の素敵な部屋で楽しく旅をしているのだな、ということに改めて気づいた。
園子とあんな風に会っていながらも、奥さんと一緒にいる時は普通に笑い合って手をつないで歩いているのだな、と思った。


園子がこれまで付き合った相手にはいつも奥さんがいたが、彼らが夫婦で一緒にいる所を実際に見たことは無かった。
既婚者と恋愛をしていることへの罪悪感はいつも抱えていたが、それは今から思えば、切実な想像力を伴ったものでは無かったのかもしれない。
実際に自分の目でそれを見てみると、それはずいぶんと胸に迫る悲しい感情を引き起こさせるものだった。


その日の夜中のことである。
枕の横に置いたままのiPhoneからメールの着信音が聞こえて園子は目を覚ました。
眠りについてから大分経っているような気がして、今が何時かもわからなかったが、画面を開いてみると深夜2時を過ぎている。
メールは彼からであった。
【園子、まだ起きてる?】
園子は悲しい気持ちを抱えたままベッドに入ったので、目を覚ましてもまだ沈んだ気分が引きずられていたが、それでも彼からのメールだとわかった途端、やっぱりとても嬉しくなった。ベッドの中で横になったまま返信をした。
【いいえ、眠ってました。】
【起こしてごめん。今から少しだけ会いたいんだけど出てこられる?】
園子は驚いて、既にネグリジェを着ていることや、メイクも落としてしまっている自分の姿を考えて躊躇った。
【とっても嬉しいですけど、今からメイクをして身支度をしていたら、おじさまのことすごくお待たせしちゃう。】
【メイクなんていらないよ。素顔もきれいに決まってるから大丈夫。そのままおいで。】
そんなことないのに‥‥素顔じゃ恥ずかしい‥とは思いながらも、彼が強引に誘ってくれることが逆に嬉しく思えて、
【じゃあ、とっても恥ずかしいけど、このまま参ります。】
【ありがとう。嬉しいよ。じゃあ15分後ぐらいに部屋で会おう。】


園子は、祖母が寝息を立てているのを確認してそっとベッドを抜け出し、ドレッシングルームに入って鏡を見た。
髪が少し乱れていたので手櫛を通して軽く結って、素顔で着てもそれほどおかしくなさそうな、ナチュラルな薄手のワンピースに着替えて部屋を出た。


9059号室に着いてドアベルを鳴らすと、先に着いていた彼が中からドアを開けた。
「‥‥ごめん、こんな時間に呼び出して」
と、彼にしては珍しく本当にすまなそうな顔をして言った。
園子はちょっと微笑んで首を振った。
「入って」
と促されて部屋に入ると、彼はその場で園子を抱き寄せて頬にキスをしてきた。
いつものように激しい感じではなく、優しく髪を撫でながら何度も頬に唇を寄せられて、園子は思わず身体がぴくっと動いてしまうほど感じてしまう。
「ん‥‥っ‥」
耐えられなくなって園子が思わず声を出すと、彼はむしろ園子から身体を離して、
「おいで。座ろう」
と言いながら園子をソファまで連れて行った。
園子は座りながら静かに息を吐いて、上がりかけた呼吸を落ち着かせた。
彼はワインのボトルとグラスを二つ出して来て園子の横に座り、コルクを抜いて園子のグラスに注いでくれた。
軽くグラスを合わせたあと園子が一口飲むと、彼は園子の横顔を見ている。
園子はそれに気づいて、赤くなりながら彼の目を見返した。
すると彼が口を開いた。
「昼間、悪かったね」
「‥‥‥」
「僕が妻と一緒に歩いてる所を見て、園子がきっと嫌な思いをしたんじゃないかと思ってね」
「そんなこと‥‥」
園子は小さく首を振ったが、同時に目の奥が熱くなって涙が出てしまいそうになった。それは、彼が奥さんと手をつないでいたことを思い出したからというよりは、彼がこんな風に気づかって謝ってくれたことが嬉しかったからであった。
「‥そんな優しいことおっしゃって下さると‥‥泣いちゃいそう」
「だって本当にそう思うもの。僕が逆の立場だったらさぞかし嫌な気分だろうからね。‥‥園子が他の男と手つないで歩いてる所を見たら‥‥すごく嫌だ」
彼はそう言って首を振りながら眉を顰めた。
園子は彼がこんな風に言ってくれるとは夢にも思っていなかったので、とても嬉しくなった。


「うちはね、もう結婚して40年近く経つんだけど、喧嘩もしないし、よく一緒に出掛けるし、傍目に見たら仲良く見えると思うよ。でもそれは夫婦としてというよりは、気の合う友人みたいな感じでね。セックスはもう20年以上してないし」
園子は何と言ったらいいかわからず、黙って聞いていた。
「‥まあ、そんなの言い訳にもならないけどさ。あなたが相手だから言い訳したくなってね」
彼は園子の目を見て少し自嘲気味に笑ったあと、真面目な顔になって、
「わかってると思うけど、僕はあなたにとても惹かれてる。会った瞬間からね」
と言った。
「そして会えば会うほどね。これは本当の気持ちだよ」
園子は嬉し過ぎて言葉が出なかった。
とてもキスして欲しくなってしまい、思わず彼の目と唇を見つめると、彼は優しい顔で笑って、
「どうしたの」
と焦らしてきた。
「‥キス‥‥」
「なあに?」
「ん‥っ‥‥キス‥してください」
園子が彼の目を見てそう言い、唇を見ながら耐えられないように顔を少し前に出すと、彼は園子の頭を抱き寄せてキスをした。舌を絡められて、園子はまた声が出てしまう。
「ん‥ぁ‥‥あ‥っ」
「園子、素顔もすごくきれいだね」
彼はそう言いながら、そのまま頬や瞼にキスをして耳に舌を這わせた。
「ああ‥んっ‥‥!」
園子の声が思わず高くなった。すると彼が舌を離して、
「だめだめ、今夜は園子に謝りたかっただけなんだ。いやらしい事はまた今度」
微笑みながらそう言う彼を、園子は苦しげな顔で見つめ返した。
「真面目な話、本当に園子に嫌われたんじゃないかと思ってね。考えてる内に心配になってきて、どうしても今夜中に会いたかったんだ」
園子はまた甘く胸が締め付けられて、おあずけされて焦れる気持ちも吹き払われてしまった。

部屋に戻り、祖母を起こさぬようにそっと着替えてベッドに入ると、彼からメールが来ていた。
【さっきキスをせがんで来た園子すごく可愛かったよ。あなたみたいな子がああやって甘えて来ると愛しくなる。
夜中に呼び出したのに来てくれてありがとう。今からよく眠って。おやすみ。】




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