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自分をはげます

ただいま私生活がめっちゃめちゃのごっちゃごちゃになっている。
自分のことながら『世の中色々あるな〜』と思わず他人事みたいな感想を抱いてしまう。


だから本当だったらnoteとかやっている場合じゃないのだが、読んだり書いたりしているととても気が紛れるのでやめられない。
寸暇を惜しんで開いてしまう。


私の気を紛らわせてくれるものは文章の他にも、友達、音楽、映画、絵画などがあるのだが、ちょっとだけ絵画のことを書いてみたい。



ご存知の方もおられるだろうが、松井冬子という日本画家がいる。
天井まで届きそうなほど逆立った女の長い髪だけの絵や、腹を裂いて内臓や子宮をこちらに見せて横たわる女の絵などを精緻な筆で描く画家だ。
私は、彼女の抱えるジェンダー的な痛み(広い意味でも狭い意味でも)と怒り、そしてそれが痛いほど伝わって来る作品の数々を心から敬愛している。


その中でも特に『桜下狂女図』という絵を初めて観た時は、
「私みたい‥‥!」
と思った。
それは、髪も着物も乱れた女が悲しみと怒りで嘔吐を繰り返し、とうとう内臓まで吐き出したかのような絵だった。
女は既に狂っているのか、実は狂っておらず今なお苦しんでいるのか。


ともかく、これを描いた人はきっと私と同じ痛みを持っている、と思った。
私がうまく言えない感情を、この人が余すことなく表現してくれていると思った。


その当時私は18歳年上の人と付き合っており、彼に高圧的な態度で説教をされ続け、それはそれはもう色々なことがあり完全にメンタルをやられていた。
ぼろっぼろだった。
『過去の恋愛がうまくいかなかったのは全部私自身に欠陥があったせいかも‥‥』
『もうこの先も私を愛してくれる人は一人も現れないかも‥‥』
という絶望感に支配されていた。
そんな状態でその絵に出会い、激しく共感したのだ。


松井冬子はこう語っていた事があった。
『私は自分のセラピーのために描いているのではない。相手に痛みをわからせるために描いている』
私はそれを聞いた時、非常に頼もしく思った。
ああ、戦ってくれているなと思った。


私はその数年後、彼女に会ってほんの少しだけ話をしたことがある。
彼女が私の格好を「素敵ですね」などと褒めてくれたものだから「いやいや滅相もございません!松井さんこそ‥‥」みたいなやり取りを明るくした後、私は『桜下狂女図』のことを伝えた。
まるで自分がそこに描かれているようでした、と。
すると彼女も表情が変わり「何かつらいご経験がおありなんですか」と聞いてくれた。
長話ができる状況ではなかったので「そうなんです、もう一朝一夕には語り尽くせないんですけれども‥‥」と答えると、彼女は頷いて「もっと詳しく伺いたいぐらいです」と言ってくれた。


ほぼそれだけの会話だったのだが、しかし詳しく話さなくても、きっと彼女はわかってくれたような気がした。
私が彼女の絵を理解できる気がしたように。


どうやら私という人間は、
『この痛みは他の人とも共有できるものである』
と気づくことで励まされるらしい。
凡庸極まりない言い方をするならば
『私だけがつらいのではないのだ』
ということかもしれない。



寸暇を惜しんで開いた皆さんのnoteを読むと『ああ、みんなもそれぞれ色々あるのだよな』と思う。
私だけがつらいんじゃなかった。
よかった。(よくはない)


そんな風にして、観たり書いたり読んだりする内にちょっとだけ元気が出る。
「まあ何とかなるんじゃない?」
と思ったりしている。







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