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水槽の中の君と水槽の外の私。

 雑多なバックヤード。
 運び込まれる餌という名の魚たち。打ちっぱなしの床はほぼ乾くことはなく、ぴちゃぴちゃと音を立てながら進むしかない。

 私の職場は水族館だ。
 現在、リニューアルで閉館中。

 上司にホームページ用の素材撮影を言いつけられ、カメラをぶら下げて館内を歩く。「ありきたりではない画像を撮ってこい」と言われたものの、そんなものは飼育員さんに潜って貰うとかバックヤードを撮ればいいのに、どうして私?…と口をとがらせてぶつぶつ言いながらメインの水槽にカメラを向ける。ジンベエザメがこちらに向かってゆったりと泳いで来るのが見えた。

「おーい、同期ー!今日も元気?」

 アクリル板を隔てたあっちの世界に私の声は届いていないのはわかっているけれど呼びかけてしまう。
 こちらに向かって泳いでくるジンベエザメの「たゆたゆ」は私の同期。一昨年の春、定置網に引っかかって怪我をしていたところを保護された。あの頃、たゆたゆは物理で傷を負っていて、私は願いが叶わず心に傷を負っていたのもあって、特別な思いで彼の成長を見守っている。
 本当ならばこの水族館に飼育員で就職したかった。小さな頃からの夢を叶えようと必死で努力して大学を卒業した。その年から今まで飼育員の求人がないのだ。意地でもここで働きたい!いつか飼育員の求人が出たら試験を受けたい!と思いながら企画や広報などの事務仕事をしているせいもあって、毎日目にする手が届きそうで届かなかった世界は眩しい。くすぶるような焦るような気持ちに苛まれる。「努力すればなんだって叶う」って言っていた大人が「運が悪かったね」って言葉で全てを片付けた。これまで必死でやっていた自分が滑稽で笑えた。目標に向かってひすら勉強して過ごした時間は何だったのかわからなくて途方に暮れ、やる気というのをどこかに置き忘れてしまった時間だけが過ぎていく。

 ジンベエザメの寿命は80歳とも130歳とも言われているので人間に近い。泳ぐ速度も時速5キロで人の歩く速さとほぼ同じだ。ただ、彼らは成体になるのに30年かかる。体長がもうすぐ6メートルに届くたゆたゆは推定15歳。成体までの折り返し地点であり、この水族館の飼育の限界が近づいてきているのはスタッフ全員が感じている。時期的に放流トレーニングが始まるのではないかとハッとした。

「たゆたゆー、背中の傷痕が残っちゃったね…
 水槽がそろそろ狭くなってきてるかな?
 海に帰る日が近くなってるよ?
 たゆたゆに置いていかれちゃうなぁ
 私はどこに行けばいいんだろ」
 水槽を眺めながら呟いた言葉は、真新しい壁とカーペットに吸収されてなくなった。その代わり、私の焦りと不安は心の奥に押し込めてもにじみ出てしまう。
「同期の成長ばかり眺めてたあたしは何してんでしょうねぇ
 私の傷は癒えてんのか、腐っちゃったのか」
どうしようもない気持ちを吐き出して、せめてたゆたゆのいい画像でも残そうとカメラを構え直し、時間を忘れてメイン水槽を撮影し続けた。

 「いつまで撮ってんのー?」
 上司がお昼前になっても帰ってこない私を探しに来たようで声をかけられる。一緒になってメイン水槽を眺めながら気になっていることを聞いてみた。
「そろそろですよね、たゆたゆの放流準備。海水温が下がってしまう前なら来月辺りから輸送トレーニング始めないとですかね?」
「さすが獣医学科出てるだけはあるね。海水温のことまで考えたか。まだ計画だけど来月の半ばから始めるよ」
「同期なんです。やっぱり気になるし淋しいなぁ…これまでの画像や映像でたゆたゆの卒業企画とかやってみたいなぁ…」
「いいね、やりなよ。あなたから積極的な事言うの初めてなんじゃない?」
 ニヤニヤしたような声が隣を向かなくてもわかる。この人は穏やかで部下や仲間のことをよく見ていて、おまけになんでも面白がってくれてありがたい人だと聞いたことがある。こんなやる気の薄い下っ端の私にもこうなのか。もしかしたらやる気を出すのを待ってくれていたのかもしれないと思うと有り難かった。
「じゃ、データ探さなきゃですね。放流トレーニングの記録もこちらで撮影させてもらっていいですか?」
「そうだね、やる気出てきたじゃない、3年目にして」
ぽんっと頭を撫でて上司は「帰るぞー」と歩き出す。

 昼食後、午前で撮影したデータを確認しながら、いいと思った画像をプリントして一番のお気に入りに走り書きをした。
『あの厚いアクリル板の向こう側、今の私の退屈は、大人になるのに30年かかるジンベエザメにとって取るに足らない時間なのかもしれない』
 たゆたゆと私の傷はふさがっても痕は消えない。それでも命は続いていくのだから生き抜こうと思えた。

 退勤時に上司からさらっと衝撃の通達を受けた。
「あの画像と走り書き良かったからさ、今度のリニューアルオープンでメインビジュアルに使っていい?てか、使うけど」


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追憶のアクアリウム(2000字) 【One Phrase To Story 企画作品】 コアフレーズ執筆:花梛(https://note.com/hanananokoe/) 「厚いアクリル板の向こう側、今の私の退屈は、大人になるのに30年かかるジンベエザメにとっては取るに足らない時間なのかもしれない。」 本文執筆:花梛 編集協力:Pawn【P&Q】

【Pawn side】https://note.com/pawn_queen_sing/n/nb9c74ec52399

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