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15歳の私と17歳の福山雅治

私が初めて福山雅治と“出会った”のは、15歳の時だった。


(正確に言うと14歳と11ヶ月なのだが、そこは大目に見てほしい)

15歳直前の10月の最初の土曜日で、私は朝ごはんを食べていた。
我が家では朝、テレビはNHKをつける習慣があり、その日もNHKがついていた。
と、その時始まったのが、当時放送していた朝の連続ドラマ小説「わかば」。
その主題歌を担当していたのが、福山さんだった。
テレビから流れてくる主題歌の「泣いたりしないで」を聴きながら、私は母と福山さんの話を始め、そういえばラジオやってるよねという話題になった。
なんとなく、聞いてみようかなという気になり、新聞のラジオ欄を見たら、なんと今日放送がある。
よし、聞こうと思い立ち、その日の夜を迎えた。

放送開始は23時30分。何となく部屋を暗くして、なるべく小さな音量で待機した。
そうして始まったのが、「福山雅治のオールナイトニッポンサタデースペシャル 魂のラジオ」だった。
覚えているのは2つだけ。

女体にタコを這わすAVの話をしていたことと、山口百恵さんの「秋桜」を弾き語りで歌ってくれたこと。

だけど不思議なことに、翌朝、私はすっかり福山さんのファンになっていた。
今でもなぜかはさっぱり分からない。

正直、これより前から、福山さんのことは“知って”いた。


「桜坂」を歌っていること、ラジオをやっていること、ドラマ「ウォーターボーイズ」で「虹」が主題歌だったこと(なお、クラスで帰りの会とかで歌った思い出)、なんかのドラマに出てること、ポカリのCMに出てること、カッコいいと言われてること。


でも、それだけ。ただそれだけで、それ以上でもそれ以下でもなく、ただそういう人がいるとしか“知って”いなかった。
あの15歳直前の10月の最初の土曜日、私はようやく、福山雅治に“出会った”のだった。


15歳直前の10月の最初の土曜日を境に、私の生活は一変した。
それまでは、ONE PIECEのサンジが好きだと公言して憚らないベタなオタクで、それに熱量を全振りしていた。
だけど、その熱量の全てが福山さんに全振りされた。


学校では、英語の授業で福山さんの紹介を英語でして、美術では「RED × BLUE 」モチーフのデザインを描き、年明け一発目の魂ラジの実家カオスの話で深夜なのに大爆笑し、友人に魂ラジを布教した。
なお、友人に「あんた最近喋り方が福山さんに似てきたよ」と言われた。


タイミングがいいのか悪いのか、件の「泣いたりしないで」のシングルが出るため、雑誌やらメディアに福山さんがバンバン出だした。
買える雑誌は全部買ったし、出た音楽番組は全部録画した。


さらに、デビュー15周年のライブツアーをやると言う。
(FUKUYAMA MASAHARU 15th ANNIVERSARY WE'RE BROS. FREEDOM TOUR 2005 〜風〜)
行きたい!と強く思ったが、当時の私がチケットを手に入れるための手段は一般発売のみ。
そして、一般発売の日は第一志望の高校受験の3日前(確か)。


迎えた一般発売当日。
私は、勉強机の前ではなく、電話の前にいた。


10時開始だったので、10時になると同時に電話をかけた。
繋がらない。
聞こえてくるのは「只今回線が大変混雑しております。しばらく経ってからおかけ直しください」。
公衆電話が繋がりやすいと母親から聞いて近所の公衆電話に行ってチャレンジしたけど繋がらず。
電話が通じたのは夕方だった。
聞こえてきたのは、予定枚数終了のアナウンス。


当然、惨敗だった。
なお、3日後の高校受験は無事に合格した。
受験終了後に私が福山さんのファンクラブBROS.に入ったのは言うまでもない。



高校入学後も、好きの熱量は基本的に福山さんに全振りだった。
魂ラジを聴くのは習慣になっていて、携帯の待受や着メロはもちろんほとんどが福山さんで、そもそもアドレスも福山さん由来のものだった。
夏休みの課題をしながら借りてきたアルバム「f」を聞き、アルバム「Dear」をヘビロテした。
当時所属してた演劇部で、ダメ出しに耐えられるよう、台本の表紙に福山さんの歌詞を書いた。
キシリッシュを買って息だけは福山雅治になり、ポカリを飲み、グリコアーモンドプレミオを食べ、当時好きだった男の子にコンビニ行くけど何か買ってくる?と聞かれてmilk teaを頼んだ。



そして高2の時、アルバム「5年モノ」が発売されて、それは発表された。
FUKUYAMA MASAHARU WE'RE BROS. TOUR 2007 「十七年モノ」が行われる、と。


時は来た。
当時はネットで申し込むという概念が自分になく、電話で申し込んだ。
発表まで気が気じゃなかった。
発表の結果を電話で確認する時、ひどく緊張したのを覚えている。


結果は,無事当選。参戦するのは、3月17日の静岡エコパ。
手持ちのCDをとにかく聞きまくって、その日に備えた。
当日は部活があったが、家の用事と言ってその日だけ休んだ。
高校の先輩が出たライブに行ったことはあったが、プロのライブは初めてだった。


座席は、スタンドの後方も後方。ステージと真反対の席だった。
遠い、正直遠い。
今ならファンクラブなのに!と憤慨しているが、当時は行けたこと自体が嬉しくてそんなのは二の次だった。
ドキドキしながら開演を待った。


そして、会場の照明が暗くなり、会場の雰囲気が一気に盛り上がる。
周りの方々につられて、私は立ち上がった。
overture が流れ始め、舞台に照明が入る。
バンドメンバーが板につき、いよいよという空気が会場に立ち込める。


そして、舞台中央奥から、沢山の光を背負って、福山さんは登場した。
続いて歌い始めたのは、「虹」。


中学の時にクラスで歌った、あの歌だった。
ぶわぁっと何かで胸がいっぱいになって、私は泣いていた。
福山雅治に本当に会えたという嬉しさとか感動とか、色んな感情がない混ぜで。
確かに、スタンドの後方だから福山さんは豆粒くらい小さくて、言ってしまえば本当にそこに本人がいるのかすら分からない。


でも、福山さんはそこにいた。
見えなくても、それが分かった。


この時、ダブルアンコールを「桜坂」と「Good night 」の2曲を弾き語りしてくれた。
そしてこの時から、「Good night 」は私の大好きな曲になった。



福山雅治に“出会って”、初めてライブに行ってから、もう10年以上経つ。
(これまでの内容で正確な年月や年齢がはじき出されるが、それは心の中で呟くに留めておいてほしい)
この間、私は高校を卒業して大学に進学し、東京に上京した。
大学卒業後は、就職して地元に戻って、転職して今の仕事に就いた。
ポルノグラフィティとORANGE RANGE も好きで、日本各地にライブに行った。
KCBというインディーズバンドにハマり、メンバーに認識してもらえるほどライブに行った。
ハリポタは全巻読破し、最遊記にハマり原画展に行き、ルパン三世にハマり過去作をレンタルしまくり、名探偵コナンでは安室の女になった。
でも、私の中の1番は、あの15歳になる直前の10月の最初の土曜日から、福山さんだけだ。



そして、福山さんを前にすると、私は、あの初めて出会った15歳の時に戻ってしまう。
自分の中に、確かにいるのだ。15歳の自分が、確かに。


ただただ純粋に、福山さんに憧れ、目が離せなくて、胸がいっぱいになって、なんて言葉にしていいか分からない。


もちろん、私自身は毎年毎年歳を重ねていく。
でも、15歳の私はいつも私の中にいて、福山さんが関わると必ず現れる。
それはきっと、これからも変わらない。



2020年12月8日、福山さんはアルバム「AKIRA」をリリースした。
このアルバムについて、福山さんはこんなふうに言っていた。


このアルバムを作るのは、51歳の自分が17歳の自分に会いに行く旅だった、と。


福山さんにとって17歳というのは、ソングライティングを行う原点になった年だという。
それは、福山さんの父親が亡くなった年。
詳しい話は福山さんが各種インタビューで語っているし、ただのファンの赤の他人の私が説明するのはおこがましいのでしないが、この話を聞いた時、不意に思ったのだ。


福山さんの中にも、17歳の福山雅治がいるのだと。
きっと、福山さんの中にも、これからもずっと17歳の福山雅治がいるのだろう。

今は無理だけど、これからも、私は15歳の私と、ライブに行く。
17歳の福山雅治と今の福山さんに会いに。

追伸:もし、もし何かの間違いで、これを福山さんご本人がご覧になられたら、私は恥ずかしさで穴に埋まる。

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