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Music and Sound Quality -3 ボーカルから伝わるもの

「音楽が持つエモーションをきっかけに、あと少し音楽へ近づくこと。そして、その音楽のエモーションの受け取りが、あと少しでも多く出来る再生音質の実現について、日ごろもろもろと思うところを書いていきます。第3回目です。」

(最初の投稿から1年が過ぎ、内容の見直しと加筆修正をしています)


音楽を意識すること

音楽は色々な場面で、さまざまな目的や用途のために利用されています。音楽を使う理由はさまざまであっても、そこには音楽の基本的な共通点があります。それは、「エモーションの伝達こそが音楽のエッセンス」であるということです。

音楽は世界の共通言語と言われるように、言葉が理解出来なくても伝わります。そして、喜怒哀楽といった人間が基本的に持っている感情の高ぶりについては、文化・人種・年齢・性別を越えて伝わるところが、音楽の素晴らしさではないでしょうか。

例えばスーパーやバーゲン会場で流されている、ノリが良い曲を聞くことで購買意欲が刺激され、あるいはテーマパークでの軽快な音楽で、楽しい体験の質が向上するようなことは、日常的にも経験する事でしょう。

音楽はBGMとして聞き流すだけでも大きな精神的作用を引き起こすほど、強い力を持つものなのです。そしてそのようなエモーションの伝達は、アナウンス用のちょっとしたスピーカーでも十分に行われることから分かるように、音楽にはオーディオの音質世界を越えた価値があります。


それでは、BGMで聴くことから一歩踏み込んで、音楽をもう少し自分の心に近いところで意識的に聴く、趣味としての音楽鑑賞の場合はどうなのでしょうか。そのときは、喜怒哀楽の感情起伏の、より具体的で細かな表現を楽しむことが、一つのポイントになるのではないでしょうか。

簡単に言うと、嬉しいだけではなくなぜ嬉しいのか、あるいはどのように嬉しいのか、それがどのように表現されどのように伝わるのか、という部分に価値が生まれます。そしてオーディオ機器や再生環境には、それらがリスナーにしっかりと伝わる音質が求められます。

もしも普段は本能的感覚での受け取りだけで、音楽に接しているというのならば、音質を判断するときはその感覚をあと少し、意識レベルに引き上げると解りやすくなるかもしれません。


しかしこのように音楽に意識的に向き合うとなれば、自分の感性との齟齬が生じ、否定を含めた様々な感情が沸き起こります。その結果、楽曲に対して心を閉ざしてしまうことで、何も伝わらなくなる場合も出てきます。聞き流していた無意識状態では伝わっていたものが、意識をすると伝わらなくなるようなことは、感性で受け取る音楽ならではの難しさともいえます。


人の声としてのボーカル

前回に書いた「谷を越える」体験を行っていく時に、手がかりとなる要素には色々なものがあるでしょう。今回取り上げる「ボーカル」は、その中でも私たちのような一般的なリスナーにとって、分りやすいものの一つだと思います。

言っていることが事実なのか、あるいはどのような気持ちなのかという部分を、声の表情から感じ取る力は、人が生活している中で誰にでも自然に育まれます。その意味で、ボーカルはリスナーの感性で判断できる部分が多い領域と言えます。

直観的な判断が出来るボーカルの声の表情と、聴き手の感性の共鳴程度が、楽曲自体を判断する最大のポイントになることは、比較的一般的なことなのではないかと思います。


また声は、再生機器の再生特性を判断する上でも、重要な指標になります。声帯の振動で発生した原音は、喉・口・鼻・胸などで共鳴・増幅されて声が生み出されます。声帯自体にも個人の特徴がありますが、更に骨格や体格、その他の体の構成要素の形や質や量、そして筋肉の使い方などで原音の変化の程度が異なってきます。

そのために、声には指紋のように個人毎に異なる、帯域幅が広いうえに複雑で微細な特徴があり、再生機器の特性によって声の音色の再現程度が、大きく左右されます。このようにボーカルは、感性の相性、そして再生音質の正確性の判断も行うことが出来る、重要な要素になってきます。


一方、楽器を含め人が手を加えて作り出す人工の音は、その再生音だけで再現の正確性を判断することは、なかなか難しいのではないでしょうか。リスナー個人の知識と経験の差から生じる受け取り方の違いは、一般的には人の声の場合よりも人工音の方が大きくなります。

楽器ではありませんが、ビジュアル系音響機器の音確認のために、映画のアクションシーンが使われることが良くあります。しかし、映画の製作者が意図して作り込んだ効果音の再現性を、再生機の音だけで判断することはとても困難なことなのです。そのような音の迫力の再現程度を判断する時も、個人的な思い込みともいえる直観だけに頼ることなく、意図された本来の音を正しく把握していることが求められてきます。


語感(言葉のリズム)について

ボーカルを考えるときの重要な要素の一つに、使われる言葉の違いがあります。次に、この言語の違いが、音楽性の違いの大きな要因になっていることに、触れたいと思います。

楽曲がグローバルに受け入れられるには、英語で歌うことはほぼ必須条件となっています。この英語と日本語の語感の違いは、リズム・メロディ・ハーモニーを柱とした西洋式の音楽が日本に広まってから現在に至るまで、日本の音楽の大きなテーマの一つです。

日本古来の音楽には、楽器によっては複数の音の組み合わせが行われることがあっても、普遍的な概念としての和音がありません。また浄瑠璃や長唄などを考えれば分かるように、抑揚はあっても2拍子や3拍子と言うような、リズムと言うほどの一定の拍はありません。

また一文字ごとに母音で終わって音節が切れる、ゆっくりとした平坦な言葉である日本語は、歌唱においても例えば「君が代」のように、音節を長く引き伸ばすことで楽曲の流れを表現します。


また大阪弁で書かれた歌詞を歌う時に、綴りとしての大阪弁はあっても、イントネーションには方言が表れてきません。このように、日本語の歌では言葉が本来持つ、音の高低によるアクセントが無くなるのです。そのため言葉の表情やリズム感を表す要素の一つが、歌唱では抜け落ちることになります。

これを、当たり前と思う人もいるかもしれません。しかしアクセントに音の高低を使う言語の中にも、重要な言葉の音の高低が、メロディの高低より優先されるという言語も世界には存在しています。


英語発音の特徴

一方の英語でのアクセントは、楽曲とも馴染みがよい発声の強弱(ストレス)で行います。さらに、母音が16種類と子音は25種類もある英語では、発音のバリエーションが多く、そこから生まれる豊富な口の動きによる、発音表現の幅がとても広い言葉です。

また口の動きは発音の種類だけにはとどまらず、顔面の筋肉の動きそのものによる意思表現も重要であり、このことが今回のコロナ禍において、マスク着用が海外では受け入れられにくかった大きな原因になりました。


このような発音の豊かさや、音に対する感度の高さから生まれる感情表現を使いコミュニケーションを行う英語では、音楽のボーカルにおいても、語彙ではなく言葉の"音"のニュアンスによる感情表現の割合が増えてきます。

更に、言葉のリズムさえ保たれれば、発音が十分ではなくても、あるいは発音がスキップされても、すらすらとコミュニケーションが取れてしまうほど、リズム感が言葉の重要な伝達要素になっています。

そして、英単語は子音で終わる言葉も多く、次の単語が母音で始まる場合は、音が単語を越えて繋がるリエゾンも頻繁に発生します。


英語歌詞を歌おうとしたときに、「全ての音をそんなに早く発音できない」と思った経験がある人もいるのではないでしょうか。しかし実は、全ての音を発音しないので、そのようなスピードで歌えるのです。ところが、日本人は日本語の感覚で、全ての音を出そうとするので、逆に上手く発音できなくなってしまいます。

また楽曲リスナーも、発音がマジックのように操られ、リズムが生み出される様を聴くことで、一種の快感を得ることが出来るのだと思います。


英語では、発音のバリエーションの豊富さがコミュニケーションの豊かさに繋がり、ひいては楽曲のリズム感にも繋がります。そしてそのような英語の楽曲では、演奏とボーカルがリズムを通して融合し、音楽の感情表現を一層と高めることになります。


音節とリエゾンとアクセントの比較

例① :「I ‘m OK」
 日本語発音:あ・い・む・おっ・けぃ、の5音節。
 英語:アィ・モー・ケィ、の3音節。mとoが繋がり「モ」になり、ケィが強く発音される。

例② :「Supermarket」
 日本語:す・-・ぱ・-・ま・-・け・っ・と、 9つの音。
 英語:ス パ マ ケ の4つの音。ストレスは冒頭のスの音にある。


音楽表現と言語

日本語の発音は、母音が5種類と子音が10種類で構成されており、発音のバリエーションは比較的シンプルな言葉です。このように発音がシンプルである代わりに、語彙のバリエーションの多さで、とても複雑なコミュニケーションを行います。

Wikipediaによると「各語の90%以上を理解しようとする場合、フランス語なら約2000語、英語なら3000語、ドイツ語なら約5000語、日本語なら10000語が必要と言われている」とあります。

豊富な発音の種類で少ない日常語彙を表現する英語では、単語の部分的な音やリズムを聴くだけでその言葉を推測できます。

しかし、シンプルで少ない発音の種類で多くの言葉を表現する日本語では、言葉の「アクセント」という伝達手段を音楽で放棄していることも合わせて、歌詞を伝えるためには各発音を明瞭にする必要が出てきます。そのためには楽器演奏は控えめにする必要があり、洋楽のように演奏音をくっきりと前面に押し出しことが難しいのです。


言葉のアクセントによる表現を失い、音節は母音と子音が組み合わされた単調な50の音に区切られ、しかも一音ごとに正しく発音しなければ意味が通じにくい。そのような日本語歌唱でのリズム表現は、そもそもとんでもなく大きなハンディを持っていること想像できると思います。

また日本人が洋楽を聴く場合では、歌詞の意味やニュアンスが十分に理解できないという以前に、そもそも豊富な発音を日本語の50音の枠に落とし込むことでしか、脳が知覚し聞き分けることが出来ません。

さらには生まれ持ったリズム感自体が、農耕民族文化に根付いた単調なものであることから、言葉を操る事で生まれる外国語のリズム感を肌感覚で理解することは難しいという、実に多くの壁に直面することになります。


ここで「だからダメ」という事を言いたいのではなく、洋楽そして邦楽を聴く時に、それぞれの音楽の特徴や長所を知っていることが、より身近に楽しむことに繋がると思っています。そして邦楽アーティストはこのような違いを乗り越えて、自分の表現を確立するために挑戦を続けています。そのようなアーティストの表現に気付いて受け取ることも、音楽体験の幅を広げることに、結びついていくのだと思います。



今回はボーカルについて、私が日ごろ感じていることを書いてみました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。次回の記事も、是非よろしくお願いします。

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