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山上 山また山

致知4月号 関東致知教師木鶏会 感想文

■「山上 山また山」  私はこの言葉に2通りの解釈ができる。
一つは,「山上についたと思っても,まだまだ途上。上には上があり,努力し続けることは重要であり,それによって人は成長し続ける。」という解釈。
もう一つは,「山の高みに着いたところで見渡し,別の高み,つまり別の価値観を見つけそれらも得ていき,成長し続ける。」という解釈。

■今月号の「致知」の記事にもこの2つの解釈が混在する。
「遮断されてはこっちに曲がり,遮断されてはあっちに曲がりを繰り返していく中で,先生の人格は鍛えられ,最後は綺麗な円を描いて,人生を卒業していかれたのではないかと思います」
森信三氏に向けた浅井秀英氏(「実践人の家」参与)の言葉。これは前者。
「常に次の山,次の夢に向かって前進し続けるのが永守流の山登りだと私は感じています」
永守重信氏(日本電産会長)に向けた名和高司氏(京都先端科学大学客員教授)の言葉。これは後者。
いずれも大事な考え方だが,この変化の多く多様な価値観の中で生き抜くためには,後者のように山上で一度周りを見渡し,別の山に切り替える柔軟な価値観にシフトしていく必要であるのではないかと考える。


■では,そもそも「山」とは何を指すのか。それは,目の前の現実と自分なりの「あるべき理想像」
とを見比べ,そこに感じる「ギャップ」であると考える。
7世紀の遣隋使の頃から20世紀の後半まで,日本にとっての「問題」は常に海外先進国との差分として明確に示されていた。そんな「恵まれた状況」が1000年以上に渡って続いていた。誰にとっても問題が明確なので,解決法もシンプルであり,とにかく時間をかけ,努力し続ければ多くの人が成功できた。学校においても従順で効率よく作業ができる人材を社会に送り出せばてよかった。その点,テストで順位をつけて競わせることが効果的であった。解が決まっている「問題解決型」の学習も効果を上げた。
しかし,1980年代に入って欧米の企業や社会と日本のそれを見比べても,明確な差分を抽出できないという状況が発生してしまった。「問題解決の能力」は今後どんどん低価格化が進み,供給過剰の状況になる一方で,当の問題を見つけることが難しくなっている。


■山口周氏は,著書「ニュータイプの時代」において,私たちの社会は既に「高原」に達しており,上昇・成長・拡大するという期待が持てなくなったとして,次のように述べている。
「問題を解ける人=オールドタイプ」よりも「問題を発見し,提起できる人=ニュータイプ」こそが評価される
ニュータイプの日本人を生み出していくために,教員や学校管理職は,自ら社会や人間の「あるべき姿」を構想する力を身につけるべきである。「あるべき理想像」なしに山は見えない。そのために私は,多分野の多くの方と繋がり多様な価値観を得るために行動を起こし,さらに「致知」等から人間のあるべき姿を学び続けたい。

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