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甘露の門をくぐりたい


うううんんだぁあああーーーーー!!!

と、私は心の中で叫んだ。
映画ボディーガードのテーマソングを、
ホイットニー・ヒューストンが歌い上げるかのごとく、
心の雄叫びは、いつまでも胸中に響き続ける。

ちなみにホイットニー・ヒューストンの名曲、
「I Will Always Love You」の一番盛り上がる部分をカタカナ表記にすると、

エンダァァァアアアアアアアアアイヤァァアアアアアアアアアアアア!!!

となる。
私の心の叫びはうううんんだぁあああーーーーー!!!なので、
ホイットニーよりは、だいぶおとなしめだ。
大概、私がこんなふうに高らかに叫んでいる時は、
自分が面倒臭くなっている時である。

私という人間は、自分が呆れるほどに面倒臭い。
負の感情を引き込み、それに惑わされ、
もしかしたら、自分がまずいことをしているのではないかと、
自身の行動や判断を疑いはじめ、
絶対にわからぬ相手の思いを妄想し
「こう思っているのではないか」などと
人の気持ちを仮定して、悩み始める。
長く、そういう感情にとらわれていると、しまいには、

「あぁ、ブッダよ、甘露の門はいつ開かれるのですか?」

などと呟き、遠い目をしはじめる。
私の中で「甘露の門」というワードが出てきたら、
そろそろ瞑想の一つでもして、心を落ち着かせなければ、
精神的にどんどん疲弊していくので要注意だ。

自分が何か悪いことしたかな?
という不安にかられる時は大概、
人に嫌われたくない。
という気持ちにとらわれているのだそうだ。
自分を否定されることに、敏感になればなるほど、
人の顔色をうかがって、自分を許容するスペースを、
どんどん狭くしていってしまう。
自分の軸が、どんどん移動して、他人へと向かえば、
自分自身を生きられなくなり、足元がどんどん揺らいでくる。
今だけではなく、少し先の判断も、
消極的にしてしまう可能性があるので、
自分が何か悪いことをしたんじゃないか、という不安は、
「気のせい」というパワーワードを使い、
お引取りいただくのが最善手なのではないかと思う。

ある程度、自分の心が落ち着いてくれば、
なんで、そんなことで悩んでたのよ。
冷静になればわかるじゃないのさ。
と、我に返るのだが、我に返った後、
不安になり感情を握っていた時間が、実に不甲斐ないものに思えてきて、
もう、いやだ! 私ってなんてめんどくさいの!!!
となり、ホイットニーばりに

うううんんだぁあああーーーーー!!!

と心が叫びだすのだ。
我に返っても返らなくても、
私という人間は、やはり面倒である。

甘露の門とは、かなり簡単に言えば
「安楽にいたる入り口」という意味らしい。
私は個人的に、甘露の門を、
感情にとらわれず、心が波立たず、静かな安心感や、
幸福感に満ちている状態をキープできる場所に行ける門。
悟りの境地への入り口、という感覚で捉えている。
私から見れば、もうそこは、ディズニーシーやUSJが
全力でひれ伏すくらい、最高の極楽場である。

ひらけ!ごま!

といって、ゴゴゴゴゴと甘露の門が開いたらどんなにいいだろう。
しかし、そうは問屋が卸さない。
でも甘露の門の前で、中年女が地団駄踏みながら、

うううんんだぁあああーーーーー!!!

と叫び続けていたら、甘露の門番の方が音を上げて、

「もういいから入んなさい!」

と言って門を開けてくれるかもしれない。
しかし、それを実行するにはホイットニーのような
強健な声帯が必須となる。
自分の声帯にダンベル持たせて鍛えさせるわけにもいかないので、
これは諦めるしかなさそうだ。

6月も近くなり、そろそろお中元の季節。
夏の元気なご挨拶を、甘露の門番にしておけば、
お礼に、こっそり門をくぐらせてくれるかもしれない。
果物、ゼリー、そば、うどん、ギフトはいろいろ揃っている。
いや、ここはやはり、純米吟醸やビールを大量に送り、
門番たちを酔わせたすきに、
忍び足で門をくぐってしまうのも手かもしれない…。

そんな他愛もないことを考えながら、
私はお中元カタログをパラパラめくっている。
甘露の門をくぐりたいあまり、私の妄想は
イースト菌のように、際限なく膨らんでしまいそうだ。
これ以上の妄想は過発酵になりかねないので、
今年は自宅用に、三輪そうめんを注文することに決め、
私はカタログを閉じた。





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