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◇ 頭にきた。もうあんな男とは別れてやる。 電話を切ってから、一時間近く経つのに、この腹立たしさが収まる気配はない。気がつけば、ベッドに座ったまま、膝の上で、ずっとこぶしを握りしめていた。開いてみると、手のひらにはじっとりと汗がにじんでいる。私はティッシュペーパーを一枚引き抜き、手を拭く。それをグシャグシャに丸め、ゴミ箱めがけて投げ入れようとしたが、角に当たってポロリと落ちてしまった。何をやってもうまくいかない。 「真希ちゃん。来週の旅行、ダメになっちゃった」 「
第一話はこちら ◇◇◇ 翌朝、部屋を出ると、早い時間にもかかわらず、青い空が目に飛び込んできた。こんな日に限って、雨ではない。 「雨だったらよかったのに」 空に向かって、そんな愚痴をつぶやきながら、部屋の鍵をかける。 息を深く吐き、キャリーバッグを引いて、私は駅へと歩き出した。この日のために買ったワンピースが、戦闘服のように私の身体を包みこむ。力強く歩く私の両脚に、その裾がうっとおしいほどにまとわりついた。 電車に乗って、東京駅へと向かう。
第一話 第二話 はこちら ◇ まだ午前中の早い時間だ。 本来なら、朝市にいく予定だったのだが、さすがに一人で見て回る気にはなれなかった。観光ガイドに載っている名所を見たところで、惨めな気持ちになるだけだ。仙台ほどの都会なら、見慣れたファストフード店やカフェもたくさんある。いっそのこと、東京にいるのと変わらない場所でゆっくりしたほうが、気も休まるだろう。 とりあえず私は、仙台駅の中央口から西口方面出口へと向かった。駅の二階から伸びる高架型の歩道は、たくさんの人が歩
第一話 第二話 第三話はこちら ◇◇◇ お店は、すでに決まっているらしい。 ホテルの近くに、お酒も飲める牛タン焼きのお店があるそうだ。 きっと、私といくつもりで、洋平が調べてくれたお店なのだろう。そこに自分の妻を連れていこうとしていたのだから、洋平の倫理観も、それなりに壊れている。まさか、妻と愛人に挟まれて、こうして食事に出かけることになるなんて、思いもしなかっただろうが。 「お昼をしっかり食べたはずなのに、どうして旅行中ってこんなにおなかがすくのかしらねー」
第一話 第二話 第三話 第四話はこちら ◇◇ 「えー! なんでー!!」 最上階のロビーに、奥さんの嘆きの声が響き渡った。 入店予定だったバーには《臨時休業》の文字が掲げられ、木製の扉は隙間なくキッチリ閉じられていたのである。 奥さんはガックリと肩を落とした。 「せっかく、本物のカクテルを頂けると思ったのにー」 もし私が、洋平と二人でバーを訪れていたとしたら、この嘆きの声は、私が発していたに違いない。そう思うと、何だか自分の姿を見るようだった。 「どうしまし
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 はこちら ◇◇ 一瞬、時が止まった気がした。 奥さんが放った あの夫。浮気してるの。という一言が、頭の中でリフレインしている。身動きできずに固まっている私を見て、奥さんが、うふふと笑う。 「驚いた?」 うなずくしかない。 「本当はね、この旅行も私とじゃなくて、浮気相手と来る予定だったらしいんだけど、それを、私が横取りしちゃったみたいなの」 「横取り?」 「そう。新幹線のチケットが見えるところに置いてあったから、これどうし
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話はこちら ◇ 目が覚めて窓を見ると、青白い空に有明の月がうっすら浮かんでいた。 明け方の、冷たい空気が気持ちいい。 透けるような月に浮かぶ、ウサギの模様を眺めながら、あの裏側は一体どうなっているのだろう、などと思う。 地球から、月の裏側を見ることができないのは、月が自転と同時に、公転しているからである。 学校で習ったそんなことを、つい思い返してしまうのは、昨日がまるで、月の裏側を見てきたような、劇的な一日だ