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花丸恵の掌編小説集

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自作の掌編小説(ショートショート)を集めました。
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2023年6月の記事一覧

妖怪の娘 #短編小説

 「海砂糖をご存じですか?」  うみざとう。  その言葉は、耕造の白髪頭の中で《海砂糖》という漢字に変換されて聞こえていた。  耕造に声を掛けてきたのは、中学生くらいの女の子だった。  憤懣やるかたない思いで、堤防釣りをしていた彼の目に、濃い藍色のジーンズに、スカイブルーのTシャツ姿が眩しく映る。黒くて長い髪をきゅっと後ろで束ねた少女は、折りたためる小さなイスを手に、じっと耕造を見つめていた。この辺では見ない顔だ。竿は持っていないので、釣りに来たわけではないらしい。 「海

ガラスの手 #短編小説

 ガラスの手だな……。  長考後の一手を指したとき、野上充裕はそう思った。決して、筋のいい手ではない。だが、こういう手が、相手を惑わせることがあるのを、彼は知っている。  将棋用語では、嘘手、などと呼ばれているが、充裕は密かにこういった手を、ガラスの手と呼んでいた。脆く割れることも多いが、相手の出方次第では、光を含んだガラス玉みたいに輝くこともある。ダイヤモンドや水晶のような値打ちはない。だが、こんなガラス玉のような手に、充裕はこれまで何度も救われてきた。  今日、充裕は

猫かぶりの術 #短編小説

 恋は猫をかぶらないと、成就し得ないものなのだろうか。  彫刻刀で掘ったような深い皺を眉間に刻み、小田切昌子は腕組みしながら考え込んでいた。  社員食堂の端の席でたぬきそばを食べ終えたとき、先日の合コンでの光景がまざまざとまぶたの裏に浮かんできたのだ。あのときも、昌子は店の奥の右端の席に座っていた。  小田切昌子は、鼻の穴を大きく膨らませ「むーん」とも「ふーん」ともつかぬ曖昧な音の溜息をついた。その様子はまるで、三日煮込んだこだわりのスープが自慢の、ラーメン屋の主人のよう