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認知症の父を見送って-その1 新年早々、重たい話題ですみません

 この1月6日に父が永眠いたしました。享年87歳。昨年11月に脳梗塞を患い、山口県周南市(旧徳山市)の病院に入院していましたが、2020年仕事初めの朝、入院後2か月足らずで息を引き取りました。私はいわゆる「死に目には遭えず」でしたが、世話をしてくれていた妹の知らせですぐに山口県に帰省しました。妹からの電話が鳴った時、「あ!これは!」とわかりました。あの胸の直感的な胸のざわつき。それは前日の夕方、LINEで「あまりよくない状況」だと知らせがあったからです。それでも父と同じような症状の他の親戚の叔母たちは2年、3年と生き長らえているので、まだまだという気持ちが正直ありました。でもその日は早かった。私の父の場合は。。。
 仕事初めの朝でしたが、私は取るものもとりあえず、とにかく喪服とその他いろいろをあっという間にキャリーバックに詰め込んで家を出ました。出張慣れしているため、荷造りだけは早い。大した自慢にはなりません。
 この写真はその1月6日に新幹線から見た富士山です。冬の富士山は何があってもどっしりと大きく美しい。こんな重たい気持ちで新幹線に乗る日が来るとは!よく仕事で新幹線を利用している私ですが、同乗している人の中には、こうして親を亡くして急ぐ道中の人もいるということを改めて思いました。実は過去に一度だけ似たような経験があります。それは36年前、祖母が亡くなったときのことです。それから36年。近しい肉親の死には遭遇していなかったということになります。長寿社会ですね。

父との思い出 キャッチボール

 早く帰れたため、葬儀場に母と二人きりで二泊できました。お通夜の前の本当のお通夜を父母と三人で静かに過ごせました。母は「疲れた」の連発ですぐに眠りましたが、私は遅くまで、何度も冷たくなった父の顔をさすりながら「ありがとう」を言いました。
 父は中学の数学の教師をしており、教頭、校長と順調に職務を全うし、リタイア後は自宅周りのDIYや農業などをしておりました。立派な門を作ったり、石灯篭を立てたりと、まるで旅館のような家になっていました。

実家

 父は私を男の子みたいに育てたように思います。小さい頃、野球好きな父とキャッチボールをして、グローブの使い方を習いました。私の時代はまだまだ「女の子は短大に行けばいい」という家庭も多かったのですが、「女だから」と言ったことはなく、しっかり勉強するように東京の大学に行かせてくれました。
 高校時代は父の務める中学と私の通う高校が近かったため、朝は父の車に乗せてもらって登校していました。私が長い髪を三つ編みにするのに時間がかかっていると「早くしろ!職員会議に遅れる!」と怒られました。車の中でいろいろな話をしたと思いますが、あまりよく覚えていません。
 忘れられないのは大雪の日のことです。岩国では7年に一度くらいしか積もるような雪は降りませんでしたが、高校の時にその大雪が降り、途中のトンネル前の長い坂道で車が立ち往生してしまいました。私は一人、車を降りて近くの駅まで歩くことに。降りしきる雪の中、柔らかな雪に足をとられながらもくもくと歩き汽車を待ちました。遠くにトンネルまでの坂道に長く続く車の列を心配しながら見やった日のこと。あの駅の雪景色を忘れません。

東京の孫をかわいがってくれて

 私が結婚して東京に嫁ぐことになったとき、父はどんなにか失望したことでしょう。私たちは二人姉妹。二人とも嫁に出てしまい、申し訳なかったと思います。
 それでも父は私の生んだ3人の孫たちをとてもかわいがってくれて、夏休みに帰るたびに海へ山へと連れて行って遊んでくれました。息子たちが喜ぶので、家の庭に「カブトムシの家」を作ってくれたり、山の中の小川でバーベキユーをしたこともありました。
 そんなたくさんの楽しい思い出のおかげで、孫たちも忙しい中すぐに東京からお通夜に駆けつけてくれました。
 既に10年前、70代の後半から認知症を患い、二人暮らしとなっていた母が自宅で介護をし、近くに住む妹がサポートしてくれていました。私は遠くにいて本当に役立たずで、不甲斐なく、妹夫婦に大変申し訳なく、心から感謝しています。 

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 この写真は昨年11/1に私の母校、山口県立岩国高等学校で講演した時のものです。私の住まいは岩国市と周南市の間くらいにあり、私が卒業した高校は岩国高等学校。在校生と保護者の方々向けに、同窓生の一人として講演するという栄誉に浴しました。久しぶりに同級生が集まってくれて感激しました。
 その翌日、認知症のため老人ホームに入っていた父に面会した時は、暖かな部屋でぬくぬくと幸せそうにしていました。車椅子に座って毛糸の帽子をかぶっていたその光景が目に焼き付いています。私のことはわかりますが、常に母のことを親鳥を探すひな鳥のように目で追っていたことが印象的でした。

 お通夜、葬儀と滞りなく弔いの行事が終わり、帰京し、今は講演などの仕事を再開しております。再開というか、仕事初めが遅くなってしまったという感じですね。スタッフのみんなにはその間、大変お世話になりました。ありがとう。私が不在でも会社の仕事をしっかり進めてくれて、心から感謝しています。

                         つづく

 




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