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あのメロディはどこに。

そのワンフレーズだけが耳に残って。

なんて。
叙情的な始まりを装っていますが、何のことはない。とあるCMソングをずっと探していただけのことです。
Youtubeを作業用にかけていたので画面も見ていなかったのですが、そのCMが流れた時にはメロディが美しくてぱっと顔をあげたほどでした。そして、頭にそのフレーズだけが残ったまま消えずに、翌日から事あるごとに香りのように頭の中に立ち上るのです、そのフレーズが。

こうして書いてみると、サブリミナル効果的に多大なる影響を受けているだけの単細胞な気持ちもしなくはないのですが、やはり探してしまうのです。

そして、今日ようやく見つけたのです。

見つからないわけだわ、ずっとApple Musicで探してたもの。

配信は、Amazon Musicオンリー。

それはそうでしょう、Amazon PrimeのCMだったもの。

そして、やはり引っかかっているというわけです、まんまと。

でもね、良いので聞いてみて欲しい。

頭の中に残っている音楽の話をしましたが、そういえば、いつもなんとなく頭の中に流れているメロディというものもあるのです。それは先ほど書いたような香りが立ち上るようにフレーズが出てくるというのではなく、気づいた時には鼻歌を歌うかのように頭の中に流れている、といった感じなのです。『鼻歌を歌うかのように』なのであって、実際に鼻歌を歌っているのではないわけです。頭の中で「歌っている」と言いましょうか。家事をしているときや歩いている時やコーヒーを飲んでいる時やなんかに、頭にはそのメロディが流れているわけです。

そのメロディが一体何のメロディだったのか、この間久しぶりに意識してみて、実際に聞いてみようとi phoneのApple Musicを立ち上げてみたのです。

そうしたら、持っていなかったんです。

もう10年近く聞いていない、
下手したらそれ以上になるかもしれない、

そういうメロディだったんです。

でも、そのメロディはいつもそばに(頭の中に)あるわけで、まさかそんなに聞いていないとは、ましてや、持ってもいないなんてことは、露ほどにも思っていなくて、驚いたのです。
そして、そのメロディは20年くらい前のサントラなので、Apple Musicにはそろそろ入っていても良いのではないかと思うのですが、配信自体がありませんでした。SpotifyにもAmazon Musicにもないのです。i tunesでの販売もない。
でも、時々実際に耳にしている気がする、と感じていたのでよくよく考えてみました。そうしたら分かったんです。N◯Kでした。好きなサントラの音楽がNH◯でかなりの確率で流れていたんです。情報番組の、バラエティの、ドキュメンタリの、BGMとして。だから、余計なんです、絶対的に自分が持っている筈だという意識が芽吹いた上に育っていたのは。

そばにあるメロディというのは、ほんとに自然にそばにあって尚且つ自然に育っていくものなのかもしれない、と思いました。この歌が好きだからこの歌を歌う、というのとはまた違うのです。歌詞がないものの方が種を蒔いた際に育ちやすいのかもしれないな、とも思います。歌詞があると歌詞を思い出す方面に考える力を引っ張られるわけですから、自然に思い出すのとは少し違うのです。力が少し入っている。でも歌詞のないメロディは自然に浮かぶものです。どこにも力が入っていない状態。そしてそのことは実は重要なことなのではないか、という気さえしてきます。何気ない時にそのメロディの中にいる自分というものが常日頃から存在するということは、そのメロディは確実に人生を支えている一つのピースとしての役割を持っているわけです。そのメロディを自然に思い出すことで人生という長い川を渡っていくことが出来ている。そんなことを考えてますますそばにあるこのメロディを実際に聴きたくなりました。蔦屋さんのお世話になる確率が日増しに高くなりますが、更新していないカードというものがなかなかに足を重くしている中、これはもしかしたら買った方が早いのかもしれないと思うわけで、アマゾンさんの手軽さにまたも引っかかっているという次第。

ところで、なんのメロディかというと。

このサントラのうちの一曲が私を支えるメロディなのだ、とどうして人に伝えようか。

でもきっと、世の中のすべての曲にはこうした形で人を助けているものが確実にあるのだということは言わざるを得ない。

しろくまʕ ・ω・ )はなまめとわし(*´ω`*)ヨシコンヌがお伝えしたい「かわいい」「おいしい」「たのしい」「愛しい」「すごい」ものについて、書いています。読んでくださってありがとうございます!