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ファロスの見える家          フィガロの結婚1

【これまでの経緯】
美咲は陶子の母の看護を補助するよう命じられ、それを立派にこなし、看護師長から一人前の看護師と認められた。


 きりりと晴れ渡った寒気の中、チラチラと風花が舞っている。大晦日まで残り一週間に迫っているが、年末の世間の慌(あわ)ただしさとはまったく無縁なのがここ「ファロスの見える家」なのだ。
壮介は退屈しのぎにグラスを磨き、寒さが苦手な渚沙は庭で絵を描くこともなく、フロアで愛之助とじゃれていたが、それもすぐに飽きてしまったのか、今はいつもの指定席に座りコーヒーを啜っている。遊び相手をなくした愛之助はつまらなそうにストーブの前で丸まっている。そんな時、店の外からかすかに女の歌声が聞こえてきた。


♪フロイデ シューナー グェッターフンッケン トニター アオス……
ベートーベンの交響曲第九番『歓喜の歌』を歌う声が、徐々に大きくなってきた。ドアの前で声が止むと、チリリンとドアベルが鳴った。
「♪みなさ~ん ♪ごきげんよ~」
澄み切った女性の声がファロスのフロアに響くと、ストーブの前で丸まっていた愛之助がピョーンと飛び上がった。


「ひろ子さん。いらっしゃい」
 渚沙は振り向いた。
「いらっしゃいませ」
 壮介は磨いていたグラスをハンガーにかけるとあいさつした。
「♪こ、ん、に、ち、わ~」
 ひろ子は絶好調。にこにこ顔で嬉しくてたまらない様子だ。
「うまくいったようね、コンサート」
渚沙はひろ子の笑顔につられるようにして笑った。


「市民ホールでの発表会が今日だったの。とってもいいコンサートだった。聴きに来てくれたお客さんのみんなが、あたしたちの歌声に聞き入っているのがわかったわ。あたしもワーっと感動が押し寄せてきて、歌いながら涙があふれそうになって、体中がゾクゾクしちゃった」
ひろ子は万雷の拍手を浴びたラストの感動と興奮が覚めやらぬ様子だ。そして、トートバッグから『美声玉』の入っていたタッパーウエアをカウンターの上に置いた。


「壮介さんの『美声玉』とお呪いが効いたみたい。ありがとうございました」
ひろ子は壮介に向かって何度目かの礼を言うと、終わったばかりのコンサートの様子を詳しく報告した。
「発表会ではあたし、ソプラノのパートを歌ったのよ。自分でもびっくりしているんだけど。でも、とってもうまくいったわ。歌っているときは無我夢中だったけど、自分の思いのたけを歌に込め、感情たっぷりに歌うことができたと思う」
 ひろ子はその時の状況を思い出すと、自然と笑顔があふれ、充実感と達成感にひたった。


「いいなあ、うらやましい。あたしもそんな気持ちで絵を描きたいなぁ」
 渚沙は誰に言うともなくぽつりとこぼした。
「描けるに決まってるわよ。渚沙さんは毎日壮介さんのスイーツを食べて、元気をもらってるじゃない。だから渚沙さんの願いは、必ずかなうわよ」
「それならいいんだけど……」
 ひろ子は今にも破裂しそうなほどの笑顔になると、もう一つ嬉しい報告があります、と言った。


「今日の発表会の後、せんせーから来年の夏にある記念定期演奏会の話があったの。来年は節目の十周年になるそうで、それでモーツァルトのオペラ、『フィガロの結婚』を上演するんですって。そのあと、せんせーがあたしに、スザンヌの役をやらないかって。主役だから大変なんだけど君ならできると思う、って言ってくださったの」
「スザンヌって、フィガロの恋人役よね。それで、先生にはどう返事をするつもりなの」


「それが、やりますって、もう、返事しちゃいました」
 渚沙は、えっーと驚いた。
壮介はキッチンから出てくると、二種類のスイーツを手にしていた。
「それはおめでとうございます。主役のスザンヌ、頑張ってください。はい、お待ちどうさま。本日はショコラショーとポンデケージョです」
「いったいどっちがどっちなのかしら」
 ひろ子は目の前のスイーツと同じように目を真ん丸にした。


「白くてふんわりとした丸い方がポンデケージョで、カップに入っているのがショコラショーです。わかりやすく言うとホットチョコレートですね」
 ショコラショーの表面は黒いチョコレート色で、つやつやとした光沢を放っている。ポンデケージョは真ん丸の白いお団子のようにも見える。黒と白の競演。


 渚沙はショコラショーに口をつけ、こげ茶色の液体を一口啜る。艶やかなとろりとした液体が口の中に流れ込む。品のいい甘味とチョコレートの香り、その後をオレンジの匂いが追いかけてきた。爽やかな柑橘系の芳香が喉の奥に広がる。続けてもうひと口啜り、その感覚をもう一度楽しんだ。
ひろ子は白いポンデケージョに腕を伸ばした。もっちりとした感触の生地を二つに割ると、中から白いトロリしたものと赤いソースがこぼれ落ちてくる。ひろ子は流れ出てきたソースをこぼさないように口から迎えに行く。


「あちち、あちち」
ハフハフしながら口に運ぶ。もちもちとした噛み心地と、とろりとしたモッツァレラチーズ、赤いのはトマトソースでピリリとした辛みがある。
「このポンデケージョ、美味しい。いくつでも食べられそう」
口をもぐもぐさせながらひろ子の目は、細い三日月になっている。
「壮さん、このスイーツの菓銘は何と付けたの」
 渚沙がふたつに割ったポンデケージョの片割れを見ながらいつものように質問した。ひろ子はショコラショーのカップを手にしている。


「『フィガロの結婚』です」
「『フィガロの結婚』って、今度ひろ子さんがするオペラじゃない。それを作ったのね。ということは、ショコラショーとポンデケージョの結婚ということ」
渚沙は見え透いた安直な名前だと、ブツブツ言っている。


 ひろ子はカップに入った茶色いショコラショーを眺めながら、
「この前も、その前もそうだったのだけど、壮介さんのスイーツを食べるとなんだかわからないけど、元気になるんです。不思議と言えば不思議なんですよね。肩の力がスーっと抜けて、だから、気持ちが楽になって、明日も歌える、頑張れる、そんな気が自然とわいてくるんです。渚沙さんもそう思わない」
「ええ、そうね……」


 生返事をした渚沙だったが、ひろ子の言いたいことはわかる。自分だって壮介のスイーツを食べるとひろ子と同じ気持ちになっている。だから絵が描ける気になる。そして、その気持ちでキャンバスに向かうのだが、いまだに満足できる絵が描けないでいる。ひろ子のようにはなっていない。壮介のスイーツの効果がまだ出ていないのか、それともあたしには効き目が薄いのだろうか……。
                            つづく
【フィガロの結婚2】予告
 ひろ子は「美声玉」を壮介に百個注文した。その理由は…。そして、渚沙だけが迷宮の迷路をいまださ迷っていた。

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