学芸美術 画家の心 第42回「エドゥアール・マネ 黒い帽子のベルト・モリゾ 1872年作」

一見印象派の絵のように見えるが、エドゥアール・マネは若手画家の旗手モネらが創設した印象派には属さなかった。

模写「エドゥアール・マネ 黒い帽子のベルト・モリゾ」

マネはモネが自分の絵を真似し、名前まで真似たと思い込んでいた時期があるほどだ。

そんなこともあったが、マネは印象派のモネやルノアールとは個人的にも親しく、モネより8歳、ルノワールより9歳年上で兄貴的な存在だった。

マネは金持ちのプロレタリアートの出身で、印象派で認められるより権威の象徴であったサロンでの入選を強く望んでいた。これはまったくの邪推(じゃすい)なのだが、品祖な彼らとは一線を画したかったのかもしれない。

ところが現実はあくまでも厳しく、マネの絵はサロンで認められることはなかった

ロマン主義から印象主義へと大きく時代が動く過渡期に居たのがマネとモネだ。8歳の違いがお互いの立ち位置に微妙な違いを与えた好例といえるだろう。

産業革命が起き、王統や貴族が没落していく中、中産階級のプロレタリアートがのし上がってくる。

そんな時代の中で、写真機の発明や、日本からの浮世絵の衝撃もあり、美術界においても大変革期にあった。
まさしくそんな時代の8歳の差は、まったく世代感覚が違っていたといってもいいだろう。

マネはサロンで認めてもらいたかった。満を持して出品した「オランピア(1863年)」と「草上の昼食(1863年)」は散々に酷評され、マネは深く傷つき、そのショックからフランスを抜け出し、スペインや緒国を放浪した。

そんな時に画家志望のベルト・モリゾを紹介され、若さはじける彼女をモデルにいくつかの作品を描いた。

マネはベルトに最新流行の黒い帽子と黒い服を着せ、そんなベルトを描くことで心が癒され、自分を取り戻したに違いない。

その後ベルト・モリゾはマネの弟ウジェーヌ・マネと結婚し、ひとり娘のジュリーを授かる。モリゾは愛情あふれる絵を残し、女性印象派の3大画家のひとりとなる。

そうではあるのだが、マネはベルトを滾(たぎ)る思いで見つめ、その姿をキャンバスに写し取る。ベルトはそんな画家の想いを熱い眼差しで見つめ返している。

この時のふたりには何もなかったのだろうか…。

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