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ファロスの見える店         春のきざし

【これまでの経緯】
 三十を超えた顔色の悪い女が入ってきた。名を加奈と言った。何かありそうなことは一目でわかる。壮介は南海子を失ったときのことを話した。


 壮介は泣き顔を隠すようにさっと後ろを向くと、
「『春のきざし』はいかがでしょうか。お嬢さま」
 明るい声を出したつもりだったが、言葉尻は震えていたかもしれない。
「お願いしま~す。あたしもそれがいいなって思ってたの」
「『春のきざし』って」
 加奈は美咲の明るさにつられたのか、反射的に尋ねていた。


「気になるでしょう『春のきざし』って。なんだかウキウキするような感じがして」
「たしかにそうですね」
「ハチミツ入りのレモンラッシーのことです。そうよね、壮介さん」
 美咲はキッチンの方に向かって声をかけた。奥から、そうですよ、とちょっとくぐもった声が返ってきた。
「まぁ」
加奈は瞬間、笑顔になりかけたが、すぐに下を向くと顔を雲らせた。
 美咲は戻ってくるなり店の空気が変だなと思っていた。女性客の様子もぎこちないし、それに渚沙さんも壮介さんも変によそよそしい。ひょっとして壮介さん、泣いていた? 美咲は隣に座る渚沙の顔を見た。


「子供さんが大きな病気をされているそうなの。それで……ね」
渚沙がそっと耳打ちした。
「大きな病気って、どういう……。でもちゃんとした病院で診てもらっているのでしょう。だったらすぐに良くなりますよ」
「それが……、その、ちょっと……」
 渚沙は言葉を濁した。美咲は女の客の方へ顔を向けた。
「どこの病院なんですか」
「そのう……、中央病院……。M市中央病院です」
「中央病院。子供さんだから……小児病棟ですよね」
小児病棟は美咲が学生のときに看護助手のアルバイトをしていた部署だ。そこに娘さんが入院している。美咲は虚ろな目をしてじっと考え込んでいる。


渚沙は急に黙り込んだ美咲の様子に、
――中央病院と美咲ちゃん、何か関係があるのだろうか……。
「お待ちどうさま」
壮介が『春のきざし』を注いだタンブラーグラスを美咲の前に置いた。
美咲はグラスを手にすると、さしてあるストローを黙って口にした。
「あたし、隣町で保育士をしていました」
 加奈は下を向いたままぽつりと話し始めた。


「大学生の時に付き合っていたひととできちゃった婚したんです。あの時は彼のことが好きだと思っていたのだけれど、本当に好きだったのかどうか。今になって思えばよくわかりません。子供ができて結婚したんだけど、一年もするとお互いの気持ちがすれ違うようになって。それから二年ほどして別れ話が出て、あとは坂道を転がるようにしてあっさり離婚。こうなる運命だったんです。だからあたしは仕方がないんです。でも、芽依は、芽依を巻き込んでしまって、芽依に寂しい思いをさせた。申し訳なくて……。なんと言って謝ればいいのか……」
 あとは言葉にならず、あふれ出てくる涙を指先で何度も何度も拭った。そして、ひと呼吸、ふた呼吸おいて、
「このままだと、芽依が死んでしまう。娘はなんにも悪くないのに、芽依が何をしたというの。あんなに可愛くていい子なのに、たったの六歳なのよ。どうして……、どうしてあの子が……。あたし、母親なのに、芽依になんにもしてあげられない。いったい、どうしたら、いいのぉ……」


 加奈は両手で顔を覆うと、こらえきれずに声を上げて泣きだした。
美咲は加奈の背中を優しくなでた。しばらくして加奈が落ち着くのを待って尋ねた。
「芽依ちゃんの病状はどうなんですか」
「はっ……、はっけつ、病です。余命半年、長くても一年だそうです」
 加奈は、うっ、と呻くとこぶしで口を塞いだ。
「一年……」
 美咲はなんと声をかければいいのかわからない。どのくらいの時間が流れただろうか、壮介が口を開いた。


「ぼくの妻はたったの三か月であの世に旅立ちました。あなたの娘さんは一年もあるじゃないですか。ぼくもあなたと同じでしたよ。ひとを恨み自分を悔やんでいる間に一番大切な時間がどんどん過ぎていき、気が付いた時には残りわずかになっていました。してあげたいこと、言いたいことが山ほどあったのに。妻の死と正面から向き合うのが怖かったんです。あなたはぼくと同じことをしちゃいけない。娘さんとは一年というかけがえのない時間があるんです。とても貴重な時間です。それをもっと大切にしなければ、そうしないと、今よりももっと深い後悔に悩むことになります。ここでメソメソしている時間なんて、あなたにはありません」


 壮介は南海子を亡くし、凝り固まっていた無念の想いを吐き出した。そして、続けた。
「残された時間で何ができるのか、娘さんにどんな思い出を残してあげられるのか。たくさんの愛情を注いで、できるだけのことをしてあげてください」
最後の言葉は、壮介が南海子に何もしてやることができなかったことへの口惜しさでもあった。
「そうね、壮さんの言うとおりだわ。加奈さん、あなたが落ち込んでちゃいけないわ。今は歯を食いしばってでも笑ってなきゃあ。お母さんが悲しい顔を見せたら、芽依ちゃんが余計に悲しくなるよ」
 美咲は壮介や渚沙の言葉に、目に涙をいっぱい溜めていた。


 加奈は頬に伝う涙を手のひらで拭うと顎を上げた。
「そうよね。母親のあたしが泣いてばかりいたんじゃあ、いけないよね。わかっているんだけど……、あたしって駄目ね。壮介さん、渚沙さん、ありがとうございます。あたし、ぜったい、頑張るから。ちゃんと芽依の顔を見て、しっかり向き合うから」
 壮介はうんうんと強く首を縦に振った。
「落ち込みそうになったら、また、来ていいですか」
「もちろんです。またのご来店を心よりお待ちしています」
壮介は笑顔で答えた。
「いつでも、待ってるわ」
渚沙が言った。美咲も隣で深くうなずいている。
加奈は心の中にしこりのように固まっていた悔恨の念を吐き出し、頬に赤みが戻ってきたように見える。


「あのー、『春のきざし』いただけないでしょうか」
「ええ、もちろんです。お待ちください」
 壮介はすぐにキッチンへと取って返す。こぼれ落ちそうだった涙をタオルで拭う。
「壮さん、あたしも、お願い」
 渚沙だった。
「あたしはお代わりー」
美咲の泣き笑いの声だった。
 『春のきざし』を飲み干した加奈は、来た時とは別人のような晴れやかな顔をして、スツールを降りた。縮こまっていた丸い背中をグイと伸ばし、三人にかわるがわる頭を下げると、チリリンとベルを鳴らして出て行った。


 愛之助は美咲の膝の上で、加奈が出て行く後ろ姿を静かに見守っていた。愛之助は冷たい雨が降る夜、美咲に抱かれここにやって来た。やせ細っていた顔は今ではふっくらし、日に日に元気になっていく。引きつったような細かった目も黒目勝ちでくりくりっと真ん丸。愛らしい子犬の表情に変わってきた。しかし、いまだにワンと鳴くこともクーと声を出すこともない。
愛之助は鳴き声を忘れるほど辛い思いをしたのだろうと、ファロスの住人たちは考えている。深い悲しみを抱えている愛之助だったが、この店のひとたちの優しさに触れ、少しずつ元気を取り戻しつつある。
美咲はそんな愛之助がそばにいてくれる、ただそれだけで明日も頑張ろうって思えるのだった。美咲もまたひと知れず悩みを抱え傷ついていた。

   『春のきざし』
  ハチミツとレモン
  仲良く寄り添っている
  牛乳とヨーグルト
  ふたりの仲間になりたくて
  みんな揃うと温かい
           宇美

【夢見たもの】予告
 美咲が扉に手をかけようとしたとき、ふわ~っと開き、よれよれのザックを担ぎ、幽霊のような痩せこけた男が立っていた。

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