森川曽文の雪松図

雪松図といえば、円山応挙。というのを私はしらなかった。

ゴールデンウィークも最後、たまたま行った静岡県立美術館で「屏風爛漫」という展示をしていた。一番のメインは、伊藤若冲の「樹花鳥獣図屏風」だった。極彩色のドット絵。この企画の目玉でもあり、他の屏風とは一線を画す絵柄でもあり、展示の一番始めに飾られていてたくさんの人が足をとめてみていた。他には狩野山雪や長澤盧雪などの、どっかでみたことある名前のゴージャスな花鳥図や山水図などの屏風が次々と展示されていて、それはそれでとても見応えがあった。

展示も後半になり、次の展示室にはいると明るく金色に輝く屏風が目に入った。屏風は、六曲一双という形式で、高さは人の背丈ほどあり幅がその倍以上の大きなものが2個たっていて、展示室の壁一面ぐらいの面積を占めている。壁一面が光り輝き、そこに雪を被った大きな松がそれぞれ一本ずつ描かれている。松の姿は、どちらも全体像ではなく、一枚は松の上部、てっぺんを描いており、もう一枚は松の真ん中あたりの太い幹が堂々とそびえている有様を描き出している。雪は、松の葉、枝、幹をおおかた覆い尽くすようにつもっている。繊細で大胆な雪の表現と細やかな松葉、ごつごつとした松の幹が過不足なく表現されている。雪がたくさん降ったあと日の光をあびて静かに輝く松がそこにあると錯覚するぐらいの勢いで迫ってくるものがあった。屏風の前だけ冬の静かな明るい朝にタイムスリップしてしまったように、そこを流れる時間ごと連れ去られた感覚になった。圧倒された。

小説でも映画でも絵画でも場合によっては仕事中でも、時に自分がその世界の奥深く入り込んでしまうぐらいの感覚に襲われることがある。今回の経験を今風に言えば、屏風に没入、した。こんなかっこいい屏風を描いた画家の名前を忘れないように、森川曽文、曽文、そぶん、と頭の中で念じながら展示室をでた。残念なことに図録はなかった。「曽文 雪松図」と検索してみたが、1、2件この展覧会の感想を書いたものがあっただけで、曽文と雪松図は世の中的には一緒に書かれることがない言葉なのだと知った。一方、「雪松図」というワードには、円山応挙、国宝、などという言葉が必ずくっついてくる。そこにでてくる画像は、私が美術館でみたそれにそっくりであった。そうか、雪松図は円山応挙の代表作なんだ、と自分の無知を知った。

森川曽文は円山応挙、松村呉春を祖とする四条円山派という京都の画壇に属し、19世紀に活躍した画家である。円山応挙の活躍していた時代が18世紀後半、森川曽文は1847年生まれで19世紀後半に活躍している。四条円山派では4〜5代目ぐらいの系譜になるようだ。どのような経緯で森川曽文がほぼ模写に近い雪松図を描いたのか詳細はわからないが、ちょうど1世紀前に活躍した自分の画壇の祖である円山応挙の代表作を模写することがあっても不思議はないように思う。

事実を知ったあとは不思議な感情がわいた。もちろん、“あら、やだ、、雪松図って円山応挙が有名なのね、知らなくて恥ずかしいわ”という気持ちはちょっとだけあったけど、世の中には知らないことがほんとうにたくさんあること、それらをこれからまだ知ることができるということ、また言葉や字面だけの知識によって目の前にあるものを感じる力が弱くなってしまわなかったことが嬉しかった。頭でっかちな常識に振り回されないぐらい、それほど、生でみた森川曽文の雪松図はよかったのだ。模写であるから駄目、構図がそっくりだから駄目、似ているから駄目、というのはナンセンスな決めつけだとあらためて思う。そこに敬意があって嘘がなければそれも一つの立派な作品なのだ。

曽文の雪松図は個人蔵となっており、偶然が重ならないとお目にかかれないものようだ。元になった円山応挙の雪松図はこれからも美術館でみる機会はあるだろう。そう思うと、出先で見かけた素敵な人の面影が忘れられないみたいに、曽文の雪松図をもう一度みたい、と思っている。

そして、この不思議な感情を忘れないよう、この感覚が思い出せればいろいろなことがまだまだ楽しめるに違いないから記録しておこう。


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