大阪城攻め⚔️其の1
以前、大阪城を攻めたのはいつだったか…
どうやって天守まで行ったのか覚えていないのだが、
金箔ペッカペカな茶室が展示されていたことだけは覚えている。
あの当時、
まさか自分の推し武将が石田三成様になるなんて思ってもみなかったので(笑)
あまり大阪城に興味がなかったともいう。
そして今、
三成様聖地巡礼として大阪城へ。
こんな日が来るとは思ってもみなかった…
一般ピーポーすぎる私には、
三成様の屋敷が本当はどこにあったのかさっぱりわからないのだけど。
とりあえず私なりに調べてみたところ、
大手前と備前島にあったであろうという情報をゲット。
え、二箇所も!?
確証はないけれども、
当てずっぽうよりはいいかな🤔
大阪はあまり来たことないので、
最寄り駅も正解がわからず、
とりあえず天満橋駅で降りてみました。
ビルに囲まれてお城がどこにあるのかわからない😂
およその方向感覚で東へむかって歩くと、
突然拓ける大手前交差点。
城だっ!!!!
いや実際、どこからが城なのか?
天満橋駅ももしかしたら城の中だったのかもしれない!?
壮大な水濠!!!
秀吉さんが威信をかけて築いた大坂城🏯
あの当時では一番大きなお城🏯
なぜだ…
歩道橋にまで登っているのに天守閣がみえない😂
それだけ広いってことですかね?
と感動したけれど、
今の大阪城は徳川時代の遺構なので。
諸手を挙げて感慨深くはなれないですね🙃
この水濠の向こうが大手門のようですが、
今回は三成様の屋敷巡りなので行きません(笑)
歩道橋からみえるこの大手前が、
三成様の上屋敷があったと言われています。
こちらの学園の敷地内で三成様の屋敷の井戸の跡が見つかったとか。
石碑などもあるようなのですが、
事前に予約しないといけないので今回は外の写真のみです。
本当にここだったのだろうか?
武家屋敷があったのは間違いなさそうなので、
そう思っておく方が浪漫かな(笑)
大手前交差点から大手門へ向かう道の入口には、
城門跡のような石垣がありました。
現代に造られたものなのか、
当時もこの辺に城門があったのか、
調べてみたけどわからず…
大手前にあったとされる上屋敷を確認したので、
備前島へ向かいます🚶♀️
西から北へ。
この辺りの石垣はいつの時代のなのかな?🤔
豊臣時代のお城は徳川に埋められたとのことだけど、
水濠まわりの石垣も徳川時代のものなのかな?
濠は豊臣期からあったと思われます。
が、
たしか大阪冬の陣の後に徳川に埋められたんでしたね…
(色々埋めすぎ
濠はまた掘り返したのかな?🤔
歩いて来た道を振り返ると綺麗な景色でした😊
京橋口に着きました。
備前島の屋敷から登城した場合、
京橋を渡ってこの京橋口からであろうということですが。
今回は備前島が目的だし、
素通りしようかと思ったのですが…
高欄が面白くてついつい渡ってしまいました(笑)
京橋口となっているけど、
土橋で合ってるのかな?🤔
京橋口の両側とも水濠です。
しかも!!!
城門があったかもしれないところの石垣が…
なんだか凄い👀
なにこれ…
巨石が凄いことになってる…
写真じゃこの巨石感が伝わらない…
大きいのにキッチリとカットされてる凄さ…
巨石のテトリス…
こちらの加工方法は素人の私でもわかる!!
切込接ですね!!
ということは江戸時代のモノかな?🤔
枡形の奥にとんでもない巨石がみえる👀‼️
ああ、、
再・写真では伝わらない…
ちょっとした部屋ぐらいの大きさの巨石でした!!!!
こちらの巨石は、
『肥後石』といわれ大坂城で2位の大きさのようです。
どうやら表面積は広いけど、
厚みはないものを奥の石垣?に立て掛けてあるのだとか。
とはいえそれなりに厚みありますよ𐤔𐤔𐤔
だって、、
すごい巨石なんだもの!!!
それにしても、、
あの時代にどうやって運んだんだろう…
巨石の下に綺麗にカットされた石が!!
これも当時の人の素晴らしい技術ですね!!
なぜか、巨石といえば加藤清正。
名古屋城にも『清正石』と呼ばれる巨石があるのだけど、
コチラの巨石も同じく清正の石として伝わっていたのだとか。
だから『肥後石』といわれるのだそう。
本当は備前岡山藩主の池田忠雄によって運ばれたと説明書きがされてました😅
豊臣が滅ぼされた後に、
徳川が改修した時の石垣ですね。
あの人達(言い方)、巨石大好きですから…
それぞれの大名が忠誠心を見せるために巨石を用いた説もありますけど。
本当のところはどうなんでしょ(笑)
巨石に誘われてどんどん奥へと行ってしまう😂
城郭内へ入ってしまいました。
備前島が遠ざかる(笑)
右側には先ほどの入口とは明らかに違う石垣が。
加工方法は打込接っぽいし、
年季が入った感じがする…
うう…専門家さんから説明してもらいたいなぁ…
そのまま奥へ行くとやっと天守閣がみえました!!
やっぱり大きい天守閣ですね!!
そして…
天守閣はすぐそこに見えるのに…
まさかの行き止まり😂
あれ?
もしや私、攻めあぐねてる!?
徳川期につくられた仕切門の一つだそうです。
(現在の門は当時のものではありません。
こちらの門では、
城へ勤務する武士達を監視していたようですが。
現在はこちらの門から天守閣へは行けないようになってます。
(たまたま係の人が出て来て扉が開いてます。
でも行けなくてよかった。
危うく備前島を忘れて天守攻めしてしまうところでした(笑)
気を取り直して京橋口へ戻ります。
入って来た時とは反対側からみる巨石オンパレードもまた良いですね♪
視点が変わると見え方もちがう😊
帰り道に気付いたのだけど、
入口の両側が階段状になっている!!
いわゆる『雁木』なのかな?
敵が来たらこの雁木を登って、
塀から鉄砲で撃ったりするために造られたのかな?
窪みを発見!!
コレはもしや矢や鉄砲などで撃つための窪みなのか!?
登っていいのかわからなかったけど、
禁止とか書いてなかったので登ってみました🎶
段差がわりとあって怖かった😂
水濠から攻めてきた敵を撃てますね!!
京橋口から攻めてきた敵も撃てる!!
遺跡に登ってる気分で楽しい〜🎶
いや400年経ってるわけだし、
城跡だし、
遺跡だよね?😂
観光地化されてるお城ってなんとなく遺跡感がないというか…
はっ!!
そろそろ本気で備前島へ行こう!!!
京橋を渡るつもりが…
立派な歩道橋に誘われてこっちに来てしまった😱
聖地巡礼とは…
でも良い眺めだ✨
天守閣もよく見えました✨
上から来てしまったけど、
そろそろ備前島に入ったと思う🚶♀️
備前島とは、
宇喜多秀家(備前中納言)さんの屋敷があったからそう呼ばれた小さな島だったようです。
備前島は、いまは埋め立てられてありません。
大阪橋を渡り終えた後、
京阪本線を潜りました。
川崎地蔵尊。
その奥に見えるのが川崎橋。
おそらく、
備前島時代にあった『川崎の渡し』がこの辺にあったのではないかな?🤔
現在の藤田邸跡公園の辺りが、
備前様(宇喜多秀家)の屋敷があったとのことで。
その隣?が、三成様の屋敷と。
備前島の形状や敷地を考えるとおそらく、
川崎の渡し寄りが三成様の屋敷なのではないかな?🤔
その方がお城へ出勤もしやすそう(笑)
私の薄い記憶だと、
司馬遼太郎の『関ケ原』でも、
島左近が川崎の渡しをつかう場面があったし。
それを考えると川崎の渡し跡?はワクワクします🎶
とりあえず周辺を歩く🚶♀️
結局さっぱりわからない(あたりまえ
なので宇喜多秀家さんの屋敷だったとされる藤田邸跡へ🚶♀️
あら?
無料で入れるんだ👀✨
まだ紅葉が残っていて風情あります🍁
和風の庭園なのが屋敷跡って感じでいいですね!!
なかなか広いです。
備前様の屋敷だし。
秀吉さんの影響を受けてたようだし、
前田利家さんの娘で秀吉さんの養女の豪姫が妻だったようだし、
立派な屋敷だったのだろうなぁ。
西軍の主戦力だった、
備前様(宇喜多秀家)と三成様の屋敷があった備前島。
ココから、、
大坂冬の陣では徳川軍の攻撃で大砲がドッカンドッカン大坂城にむけて放たれたとか…
なんの因果なのか…🥺
とはいえ、
備前島があったとされるココからは、
いまは建物に阻まれて大阪城は全くみえませんでした。
備前島を後にして、
城見通りを渡る時にやっとみえました🏯
備前島からと同じくらいの距離感なので、
あの当時にこの距離を飛ぶ大砲が存在したわけですね…
今回の大阪城攻めはこれで終了。
江戸城と同じく、
城郭のまわりばかり攻めてます😂
(マニアック?
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