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昭和天皇の涙と、封印された詔書

昭和天皇が戦後…ご自身の率直なお気持ちを国民に向けて残されていました。
しかしその文書の存在が55年間も封印されていました。
当初この文書は封印される事はあり得ませんでした。
昭和天皇が公表することを強く希望されていたからです。
「真意をきちんと国民に伝えたい…」
昭和天皇はそうおっしゃって、
記念式典で文書の内容が公表される予定だったそうです。
ところが..直前になってGHQ占領下で公表は中止となったと言われています。
それ以来、半世紀以上にわたって文書が封印されてきました。

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詔書は、戦後新制度の下で初代宮内庁長官となった田島道治の遺品資料の中から発見されました。

「謝罪詔書草稿」の全文は五百十一字。以下、原文ではなく大意。

謝罪詔書草稿 昭和天皇朕は即位以来二十余年、
始祖以来の代々の天皇と国民に背くことのないように日夜勉めてきたが、
時の流れを変えることができず、
善隣との友好を失い、列強と戦い、
遂に悲痛なる敗戦に終わり今日の如き甚だしい惨禍を招くに至った。
屍を戦場に曝し、また職場で命を落とした人々は数えようもなく、
死者とその遺族に思いを致すとき、真に心痛の思いを禁じ得ない。
また戦傷を負い、戦災を被り、或いは異国の地に抑留された人達や
外地で財産を失った人々も数えきれない。
その上一般産業の不振、諸物価の高騰、
衣食住の窮迫などによる数えきれないほど多くの人々との塗炭の苦しみは、
まさに国家未曾有の災いである。

静かにこれらを考えるとき、心配の炎は身を灼(や)くようである。
朕の不徳を深く天下に愧(は)じる。 
(原文:静ニ之ヲ念フ時憂心灼クガ如し朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ズ)

身は皇居内にあっても心は安からず、
国民のことを思うとき、その負荷の重さに途方にくれるばかりである。

しかしながら現今は稀有の激変期にあり、世情は騒然としている。
自分一人を正しく潔くすることを急ぐあまり国家百年の憂いを忘れ
目先の安らかさを求めることは、真に責任をとることにはならないと考える。
内外の情勢を鑑み、敢えて身を挺して艱難に立ち向かい、
徳行(とっこう)を修め善行を積み禍を払って、
国運の再建と国民の幸福に尽くすことにより、祖宗と国民に謝罪しようと思う。

全国民もまた、朕の意を諒(りょう)とし、内外の形成を察し、
心を合わせて協力し、それぞれの天職に尽くすことによってこの非常時を克服し国威をひろめることを心より願う。

(引用:加藤恭子「封印された詔書草稿を読み解く」『文藝春秋』2003年7月号)

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昭和天皇がこのようなご決断をされた背後に以下の出来事があったと思われます。
以下、歩一〇四記念講演特集号より

●貞明皇太后の前で涙された昭和天皇

(略)…また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。

母君の貞明様は、亡くなるまで防空壕の中で生涯を送り、雨漏りのする、
そして皆様方、貞明様は法華経の信者でしたから、
戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、
法華経をあげて生涯を送られたのです。

その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。

焼けただれ、一日千秋の思いで
わが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。

貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。
この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)
などとはご卑怯ではありませんか。
退位は絶対になりません!」

陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。

「陛下の万歳を叫んで死んでいった
護国の英霊の労苦を労いなさい、
遺族の労苦を労いなさい、
産業戦士の労苦を労いなさい」

――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。


最初の地は広島でした。原爆の地、広島でした。
共産党の腕利きが、
今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」
とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。

むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。


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