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荒野をゆく

昨年読み始めて、途中で止まっていた本の続きを読んだ。

全盲の白鳥さんと一緒に美術館に行き、一緒に作品を鑑賞する話。
「見る」こと、「感じること」、ひとそれぞれの「解釈」や「対話」から生まれる「気づき」などなど、美術館に足を運びたくなる本でもある。

今回私の心に響いたのは、第7章「荒野をゆく人々」だ。
福島県猪苗代町にある「はじまりの美術館」を訪れるところから始まる。

「はじまりの美術館」は、もともと障がい者支援を行ってきた社会福祉法人が設立した美術館だ。
当初は、障害のある方の作品を見てもらうことで障害者のイメージを向上できるのではないかとの思いがあったそうだ。しかし、実際にアートに惹かれた軸は「みんなが生まれつき持っている表現の力」であることに気付いたと館長の岡部さんがお話しされている。

「表現」とは、わたしたちの日常の行動すべてを指す。
素晴らしい絵が描けるとか、芸術的価値がある作品を生み出すとか、そんな狭義のカテゴリーにおさまるものではない。
20年間一日中ラーメンの袋を握りしめている人、それを「ひとつの表現の形」だと捉えられる感性に心を揺さぶられた。

私自身、福祉の仕事をしてきて、障害者と呼ばれる人と接する機会は多かった。
社会福祉士として、「人間の尊厳」「人権」「社会正義」「集団的責任」「多様性の尊重」「全人的存在」といった原理に対しても真摯に向き合い続けてきたつもりでもある。自信が揺らぐのは、あまりにも壮大なテーマであり、完全には立ち向かえていない場面が多々あることも自覚しているからだ。そしてそのことが、常に苦しくて、いつでも逃げたくなる要素でもある。

「理想」や「大義」と同じように、目の前の、「生の」ぶっ飛んだ現実に直面し続けてきた。
「正しい」か「正しくない」かは常にグレーである。
それでも、現実に、今、生きている。
「やべーな」と思うようなリアルに出会ってクラクラすると同時に、心躍ってにやけてしまう感覚もある。

この本に出てくる「まともがゆれる」も以前読んでいて、同じように感じたことを思い出した。

スウィングのモットーのひとつに「ギリギリアウトを狙う」がある。
(中略)
かつてはアウトだったものが少しづつセーフに変わってゆき、「普通」や「まとも」や「当たり前」の領域が、言い換えれば「生きやすさ」の幅が広がってゆく。
まともがゆれる―常識をやめる「スウィング」の実験


そう!これって、ビリーフリセットと同じコンセプトなのだ。

どうしても、社会で生きていく中で、「こんなもんだ」「仕方ない」「普通は」とか、対応できるとかできないとか、変な壁にぶち当たっていく。
そのすべてを「ぶち壊せ」と体当たりすべきとは思わないけれど、結局、今感じている閉塞感の源はここなのだと改めて思い至った。
そして、その閉塞感を作っているのは、「社会」とか「世間」といった見えない敵ではなくて、「自分自身」なのだという目を背けている事実にも直面せざるを得ない。厳しい。痛い。イタタタタ

「目の見えない白鳥さんとアートを見に行く」の中には、この章以外にも、私自身が目を背けている、ヌルっと逸らしている課題を突き付けられてちょっと痛かった。
それでもこの「荒野をゆく人々」が一番印象深かったのは、「荒野」のイメージが私の頭の中にあったからだ。
何度か「一人で荒野に佇む」イメージを見たことがある。それが前世の記憶なのか、心象風景なのか、どんな意味を持つのかは分からなくても、心に焼き付いて離れない鮮烈なイメージとして持っている。

わたしたちの人生には、それぞれの未知なる荒野がある。
(中略)
自分の安全地帯を抜け出して、自らの手足で世界をまさぐりながら、わたしたちはこの世でただ唯一の「自分」という生を獲得していく。そうしていくうちに、その人が荒野にいることは自然なこととなり、荒野だった場所はそのひとにとって居心地の良い場所へ変わっていくのかもしれない。
目の見えない白鳥さんとアートを見に行く

ザクッザクッと進んでいく感覚を味わう。

「居場所を作る」とは、物理的な「場」を作ることだけではなくて、自分のいる場所を「居場所」にしていく「力」を養うことだ。
「わたしにはできない」と逃げ腰にもなるけれど、やっぱりここが自分の取り組むべき課題なのだなと戻ってくる。
さてでは、どのように取り掛かりましょうか。できることをできるだけ。

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