「世界の適切な保存」を読んだ
昨日書いた「言葉が怖い」状態が続いているけれど、今日もたくさんの言葉を浴びてきた。
「言葉」に疲弊したのか、ドーナツを食べたから糖質疲労のせいなのか、15時過ぎにとてつもなく横になりたくなってウトウトした。
起きてから読んだ一冊が「世界の適切な保存」
著者はなにもかも取りこぼさないように保存したいと願う。
「ある」ということへの向き合い方が、私の場合「ないことにする」という戦略だったのとは真逆の戦略だと感じた。
しかし、「ある」への対峙から逃れられないという点で、勝手にシンパシーを感じてしまう。
後半になってくると、なぜか何に反応しているのかもわからないまま「少し悲しい」が溢れてくる。
真摯に向き合う、逃げない逃げられない現実を前に、言葉が怖くてたまらなくて、閉じて逃げることしか考えられない。
最期の方の「手渡す」と「見る」が、特に刺さった。
感情なんて言葉にできない。感情は厄介なものだ。そんな思いもあって、いや、だからこそ、「言葉」を記号として割り切ることもできなくて、そのことが苦しいのかもしれない。「言葉が怖い」の要因の一つだ。
「言葉」そのものではなく、「感情」に翻弄されている。だから「センチメンタル」なのかもしれない。
ただ、傷つくことに敏感で、傷つけることに鈍感な傲慢な自分にうんざりしている。
それでも今日もここに書くことができた。「手渡す」相手は「自分」なのかもしれない。これが「適切」であるかどうかも怪しいが、今日の思いを保存する。
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