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「世界の適切な保存」を読んだ

昨日書いた「言葉が怖い」状態が続いているけれど、今日もたくさんの言葉を浴びてきた。
「言葉」に疲弊したのか、ドーナツを食べたから糖質疲労のせいなのか、15時過ぎにとてつもなく横になりたくなってウトウトした。

起きてから読んだ一冊が「世界の適切な保存」

 世界のバランスを気にすること、世界を保存しようとすること。こうした奇妙な習慣は、形を変えてわたしに受け継がれた。
 わたしはどうやら、時間が流れていくにしたがって、何かが消えるとか、失われるとか、忘れられるということがおそろしいらしい。

「世界の適切な保存」

著者はなにもかも取りこぼさないように保存したいと願う。
「ある」ということへの向き合い方が、私の場合「ないことにする」という戦略だったのとは真逆の戦略だと感じた。
しかし、「ある」への対峙から逃れられないという点で、勝手にシンパシーを感じてしまう。
後半になってくると、なぜか何に反応しているのかもわからないまま「少し悲しい」が溢れてくる。

真摯に向き合う、逃げない逃げられない現実を前に、言葉が怖くてたまらなくて、閉じて逃げることしか考えられない。

最期の方の「手渡す」と「見る」が、特に刺さった。

言葉とはつねに他者に向けて手渡されるものだ。その意味で、言葉を手放してはいけない。言葉を失ったとしても、言葉をあきらめないことをつづけなければならない。普通じゃない、普通じゃない、これは普通じゃない。集中力を霧散させてしまうような誘惑と闘って、この感情を適切に保存しながら、手渡していくことをあきらめない。

「世界の適切な保存」

感情なんて言葉にできない。感情は厄介なものだ。そんな思いもあって、いや、だからこそ、「言葉」を記号として割り切ることもできなくて、そのことが苦しいのかもしれない。「言葉が怖い」の要因の一つだ。
「言葉」そのものではなく、「感情」に翻弄されている。だから「センチメンタル」なのかもしれない。
ただ、傷つくことに敏感で、傷つけることに鈍感な傲慢な自分にうんざりしている。
それでも今日もここに書くことができた。「手渡す」相手は「自分」なのかもしれない。これが「適切」であるかどうかも怪しいが、今日の思いを保存する。


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