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重い本を避けていたけれど、読み始めてみたら「読みたい」と思った時の気持ちを思い出してきた

読みたいと思って図書館で借りたのに、手が付けられず放置してしまった本を読みだした。

「ちがい」がある子とその親の物語

なんと、そこそこ厚みのある本である上に、3巻まである。
大体、タイトルからして重い。
なぜ興味を持ったのか、どうして読みたいと思ったのかすら見失っている。
そもそも「ちがい」がある子って何だろうという違和感もあった。
原題は「FAR FROM THE TREE Parents,Children and the Search for Identity」
「FAR FROM THE TREE」は、りんごは樹から遠くに落ちない=子は親に似るという言葉があるらしい。
映画にもなっているようで、こちらのタイトルは「いろとりどりの親子」
映画のタイトルの方が印象が良いと感じた。

なかなか開かずに一週間以上経ってしまったので、3巻読みきることは難しいかもと思い始めて、一番気になっていた3巻から読み始めてみた。

3巻は、「レイプで生まれた子」の章から始まり、「犯罪者になった子」に続く。暴力的な描写は読み進めるのが苦しい。
「犯罪者になった子」では、銃乱射事件の親も出てきて、映画「対峙」を思い出した。こちらは、「被害」と「加害」の親通しの「対話」だったけれど、加害者の親の語りももちろんあったので思い出した。


遺伝か環境か、もちろんどちらも絡み合うのだけれど、そのどちらにも「親」という要素は大きく関係する。
自分自身の経験として、ソーシャルワーカーとして関わってきた経験からも、「環境」に関しては、「暴力」「貧困」という大きな問題、構造的な問題が横たわっていることも理解できる。それで、どうしたら良いのかを政策的に捉えることと「個人的な」目の前の「その人」との関わりや「今」どうするかの積み重ねのつらい現実を前に途方に暮れてしまう。

「トランスジェンダー」の章まで読み進めて、「アイデンティティ」の課題を突き付けられていると感じた。
そして、「わたしがわたしであること」に対する興味がこの本を読みたかった理由だと思い出した。
トランスだったとして、単純に「トランスだから」と型どおりに括ってしまえるものではなく、一見周囲からも受け入れられ、適応しているように見えても自殺してしまう人が多い。
アイデンティティは誰が決めるのか。それぞれが、「自分」で決める。子は子として、親は親として、それぞれ「自分」しか決められない。
そして揺らがない、100%振り切れるものでもない。揺らぐものでもある。

急遽、午後から出かけることになり、途中で中断してしまったが、続きが気になる。少なくとも3巻だけは読了できそうだ、

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