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「死なれちゃったあとで」

「死なれちゃったあとで」という本を読んだ。

本屋さんで見た瞬間、気になった。なぜだろう?タイトル?岸本佐知子さんの推薦文が書いてあったからかもしれない。
その時すぐには手に取らなかったのだけど、やっぱり気になり、読み始めたら止まらずに一気に読み終えた。

亡くなってしまった人を偲ぶ、というか、訃報を聞いたり葬儀に参加したりの場面はもちろん、なんとなくその人のことを思い出すことってある。
それが亡くなってしまっている人だと、もうその人に直接何かを尋ねることができない。思い出の中で、「あの時」もっと何かできたのではないかとか、一緒に過ごした「時」を思い出せたり感じられたり、どのような「死」で「別れ方」であれば納得できるってものではないのだけれど、生きている側の思いを言葉にすることは、同じ経験ではなくても、自分の中にも思い出す景色がいくつもあって、心が揺さぶられた。

生きている人を思うのと、死んでしまった人を思うのでは、どうして心の揺れ方が違うのだろう。自分の中で「死」についての「特別」な思い入れがあるのかもしれない。生きていても、もう二度と会わないだろう人はたくさんいる。それでもどこかで「生きている」と思うことは、「可能性」という意味で「会える」かもしれないが残されている保険のようなものがある。

身近な人ではなく、芸能人などテレビの中の人として出会った人の訃報が不思議な感じがすることもある。もともとテレビの中や演じている役の人としてしか知らなくて、しかも作品は亡くなった後も残っているから、そういえば亡くなったんだよなって思うとリアリティって何だろうとバグを起こす。

「生きている」ということは、忘れてしまうこともあるけれど、どうにもならない感情を抱えていくことなのだろう。それがつらくて、忘れてしまうのだけど、思い出さないことがなくなってしまうわけではなく、感情が身体のどこかに残り続けている。
このどうしようもない思いが「ある」ってことをそれぞれの人が持ち寄って、その人の中に息づいている「ある」を語るってことは、本当の話をするってことなんだろう。
思いがけず。話すこと、聞くこと、「対話」についても触れられていて、わたしはこういうことに関心があるのだと気づかされた。

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