かかわった人のことをちょっと思い出す
夏休み。
もうこのまま一生働きたくない。何度も思ってきたことだ。ただ単に、怠け者なだけなのだ。
それでも強いて「理由」らしきものを探すとしたら、圧倒的な「無力感」があげられる。
「何もできない」「役に立ってない」「かかわることでむしろマイナス」
とにかくとにかく、一切「自信」を身に着けることのない職業人生を歩んでいる。その割に、しつこくしぶとく続けているところがややこしい。
自分に対して厳しいゆえに、他者、特に同業者には厳しい目を向けてしまう。表面的には穏やかだけど、「チッ」と心の中でダメ出ししている。他人と比較して落ち込むこともあるけれど、それこそ「すごい」とか目指したい人物像もほとんどいない。
そんな中でも、数人は「メンター」的な方々がいる。
そのうちのお一人が山下英三郎先生だ。
そんな山下先生の新刊を拝読した。
日本で最初のスクールソーシャルワーカーと聞くとパイオニアであり、エネルギッシュな人を想像する。もちろん、エネルギッシュな方ではあるけれど、ガチャガチャした無駄に戦うような方ではない。
わたしの中で、ソーシャルアクションなどと息巻いている「エネルギッシュ」な方々は、鼓舞されるというよりは相対的にパワーを奪われる存在で苦手だったので、山下先生の「静かな感じ」その佇まいというかエネルギー感は、とても心地の良いものだった。
そして、山下先生のスクールソーシャルワーカーとしての「在り方」は、自身の目指すものでもあり、深く納得、共感するものだった。
それなのに、「何もやってない」「成果がでない」とあり方を否定して、「問題」を探して「問題」を「解決」することに意義を見出そうとする。それは違うと思いながら、そちらに目を向けようとする矛盾の中で、一人で勝手に苦しんでいるのだなと思い当たった。
山下先生は「いいんじゃない?」という言葉を何度も口にしていたそうだ。ただ無責任に発していたわけではなく、そこにある相手を否定しない信念。それは、ご自身が「ほしかった言葉」でもあり、だからこそ、心からの言葉として、「言葉」だけではない「ほんもの」のエネルギーが乗った言葉として届いていたのだと思う。
わたしにとっても、専門職だから、大人だから、ではなく、自身の経験として、心からその「存在」を尊ぶ姿勢として「そのままでいい」「いていい」を言いたいのだ。それは、自分がほしかった言葉で、傷ついてきた道のりでもある。
何もできないとか、届かないとか、そんなことは、自分の範疇を超えたことだ。ただ、「あなたは大切な人です」と言うメッセージを発すること、思い続けること、それを放棄してはいけないし、そこはやっぱり譲れない。
こんな考えがどれだけ受け入れられるのかは分からない。
だけど、やっぱり、自分の立ち位置はこっちだと思うし、これしかできないのだ。
まぁ、この先どんな「仕事」を続けていくのかは分からないけれど、自分の「在り方」は決まっているんだなと、ここでもやっぱりあきらめるしかないことを悟った。
今は、ちょっとだけ胸が痛い。なんでだろう?
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