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「明日がよい日でありますように」と願うこと

今日は、ウォーキングしながらのAudible読書。
本屋大賞ブームと寺地はるなさんブーム、どちらも「収集心」に火がついていたため迷わず選んだ一冊が、「川のほとりに立つ者は」

装丁とタイトルから、ちょっと暗い話のように感じていて、読みたいけれど躊躇していた本だった。

『川のほとりに立つ者は、水底に沈む石の数を知り得ない』
本の中に出てくる本「夜の底の川」に出てくる一文だ。
自分が、どの立ち位置にいるのか、結局、安全な場所から都合の良い面だけを見て、綺麗ごとを言っているだけではないのか、そんな風に「正しい」ってことを揺さぶられ、そのことに安心し、それを抱えていこうとも思える作品だった。

どんな環境に生まれ育ったのか、それが人生を左右することは間違いない。良い悪いではないし、「同じ環境」であったから、「同じように感じ」、「同じ行動をとる」わけでもないことも事実だ。
誰一人「同じ」ではないのだけれど、当たり前のように自分が感じて受け入れてきた「現実」とか「価値観」の枠の中でしか生きられない私たちは、自分にとっての「当たり前」「標準」を「善きもの」として他人に押し付けてしまうことがある。
想像力は大事だということと、常に想像力は欠如しているという事実や限界を思い知らされる。

それでも人と関わるということは、「知りたい」という気持ちに支えられている。自分の想像力を超える「価値観」や「行動指針」を「その理由」を知りたいと思ってしまう。
そして「知る」ことで「わかる」こともあるけれど、自分の受け取れる形に歪めて「わかる」にしてしまうこともある。

善意はかならず受け入れられるものである
差し伸べられた手は素直に握り返せばいい
誤った選択は正されるべきである

理不尽で傲慢な「善意」の前に、その場限りの行動は、それが自身を守るための手段であっても、それじゃダメだよ、幸せにはつながらないよと窘められる。

時に手を差し伸べる側として、時に手を差し伸べられる側として、自分の身に起こったことを思い出し、苦しくなる。

『あなたにとって明日がよい日でありますように』
そう願うこと、願ってしまうこと、願わずにはいられない、その気持ちは確かにある。ただ単に「ねがい」として、ある。
だから自分にできることをしようと試みたり、胸を痛めてみたり、それは「自分」の自由だ。
それを拒むことも受け入れることも「相手」の自由だ。
その行動が「良い」「悪い」ではなく、「今じゃない」「あなたじゃない」「それじゃない」と理屈だけじゃなくて無理なものは無理なのだ。
悪意や敵意をぶつけることだけではなく、より良い方向に導こうとか、他者を「変えよう」とすること、努力を強いることに対しても、「違う」「違うんだよー」と反応してしまう自分がいる。

とにかく、いろいろ痛かった。
それでも考えて、抱えなくてはいけないことだとも思う。
最後がほんわか温かく終わってホッとしている。

↓ こちらを読んで、「問い」をたくさん受け取った本だったと腑に落ちた。その「問い」に反応して、自分の経験が浮かんで、繋がったり広がったり、途方に暮れたりしている。

そういえば、「カレーの時間」の時もぐるぐるしていたことも思い出した。


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