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もしもあの時、死を選んでいたなら

2019年8月、34歳 乳がんが見つかる

右乳房 浸潤性乳管がん:乳がんであることが確認されました」
渡された紙にそう書いてあった。
 
右胸の下の方、膨らみのあるところの表面に、
「小さな豆のようなコロコロとしたものがある」
ということに気付いたのは、
その前の月のことだった。
 
初診で訪れたクリニックの先生は、
「たぶん、がんではないと思います。
 良性腫瘍のような気がしますが、
 念のため組織を取って検査しましょう」
と、優しく言ってくれた。
良性腫瘍なら処置をせずにこのまま様子見になる、
とのこと。
 
34歳という年齢で「がんの疑いがある」とは、
青天の霹靂だったが
「がんではないだろう」と先生に言われ、
私は少しショックだった。
―― 私は、「がん」になりたかったのだ。
 
31歳で離婚して以降、
恋愛がまったく上手くいかず、
好きになる人には他に彼女がいたり、
またある時は、
一晩だけの関係で終わってしまったり…と、
女性としての自信のなさから引き寄せていたであろう出会いが続いていた。

やっと自分の好きな音楽を通じて出会えた人とは、
2人きりで出かけるほどの親しさにはなったが、
それは月に一度だけという
「友達」の距離だった。
そこで、
なんとかこの関係を深めたい
と焦りが出てしまった私は、
逆に彼から距離を取られ、
それ以上進展することはなかった。

その間に彼は別の女性と仲良くなってしまったようだった。


きっとこの先も、私に良いことなんて起こらない

乳がんだと診断されて、
うれしいようなほっとするような気持ちがあった。
 
その月、私の好きな彼が、
女性とタイ旅行に行っているということを
Twitter(当時)で知ってしまったのだ。

「好きな人と私は、もう上手くいくことはないんだ」と静かに悟ったとき、
自分なんてどうなってもいいや、と思った。
生きていたって、この先も私には良いことなんてきっと起こらない――。
どれくらい泣いたか分からないほど、激しく泣いた。
 
自らで自らの生を終わりにするなんて
したくてもその覚悟ができない私にとっては、
このタイミングで「がん」が発覚したことが密かにうれしかった。
……ただ、
これまで大きな病気をしたことのない私の両親が、
まさか自分の娘ががんになったと知ったら
と想像すると悲しみがわいた。
 
確定診断の日は、
一言では説明できない感情でいっぱいだった。


がんになっても、そう簡単には死ねない

女性の乳がんというのは、10年生存率※が約85%。
適切な治療をすれば、の話ではあるが、
単純に「がん=死」が成り立つわけではない。
 
※診断から10年後に生存している割合。
診断時、仮に100人いたとして、
「10年後の生存率85%」であれば、
10年後に85人が生存している、ということ。
 
がんは、
検査などで見つかるような大きさになるまでに
10年ほどかかるというのだが、
私の乳がんは進行が早かった。
何年かかけて徐々に大きくなったものではなく、
ものの数か月で出来あがったと思しきものだったのだ。
ということは、
このまま治療もせずに放置すれば、
がん細胞はそのうち体中をめぐり、
確実に私を死へと運んでいってくれるだろう。
 
恋愛でどん底に落ちたこととは別に、
生きたくない理由がもう1つあった。
 
私の乳がんタイプの特性上、
治療する場合は抗がん剤を取り入れる
ということが避けられなかった。
私はそれがどうしても嫌だった。
――つまり、髪の毛が抜けるのが嫌だったのだ。
 
当時の私は、
自分にはない艶やかな要素を持ったとある女優さんに憧れていた。
その方を真似た、同じ黒髪のロングヘア。
それが自分にとって「女性らしさ」の象徴だった。
恋愛で傷つき、
自分の女性としての価値を何度も疑ったが、
長い髪を丁寧にケアしている時は
自分が女性であることに誇りを持てた。
 
アイデンティティであるこの髪を奪われるくらいなら、
大切にしてきたものを失うくらいなら、
こんな副作用がある治療なんてしたくない。
死んだって別に構わない。
人はいずれ死ぬ。
それが早く来るか遅く来るかだけのこと。
 
だから、私は病院で先生に伝えた。
――「抗がん剤は、やりたくないです」
 

生きることは選択の連続【1】

先生は、そう言った私を否定しなかった。
 
「確かに抗がん剤をやらないことも
 一つの選択ではある。
 抗がん剤をやって、一時的にだけど髪を失う。
 少し時間はかかっても、
 そのうちまた髪は生えてくる。
 生きてこの先の長い人生を楽しむ、
 ということも考えてみてはどうかな」
 
先生は、ここで決めるようにと急かすことはなく、
病気に対して知識のない私が自分の意思で治療するかを選べるように、
いろいろと説明をしてくれたり、
質問にも誠実に答えてくれたりした。
そして、私は宿題をもらった。
 
自分がどんな価値観を持っているのか
何を一番大事にしていきたいのか
少し考えてみて、と。
 
その日の夜に書いた、自分のメモにはこうあった。 

自分について考えなければいけないから、
それが辛い。
よく分からない。
自分のことなのに、自分のことがよく分からない。
どうしたいかがあまりない。
ただ、髪の毛が抜けてしまうことが怖い。
今の私じゃいられなくなるのが怖い。
誰も私を綺麗だとは思わなくなるだろう。
私は、私の体がこんな時でさえ、
他の人のことを考えている。


生きることは選択の連続【2】

続けてこう書いてあった。

私以上に大事な人なんていないのに。
私と一生一緒にいるのは私。

最後の時まで、私と一緒にいるのは私なんだ。
 
好きな人に好かれないからといって、
どうしてそう簡単に人生を諦めてしまうのだろう。
大事にしてきたものを一度失うからといって、
どうしてすべてを失うかのように思ってしまうのだろう。
髪の毛の長さで、
女性らしいかどうかを判断することに意味なんてあるのだろうか。
 
自分で作り上げた思い込みのかたまりの中に、
私はもう何年も埋まって息ができずにいたようだった。
……たぶん、限界が来たのだと思う。
 
自分がどん底にいるのなら、
どうしてその自分のことを自分が引き上げてあげないのだろう。
自分が幸せでないのなら、
どうして自分が自分のことを幸せにしてあげないのだろう。
 
どうして、私は、
「がん」になったのだろう――。
 
がんは私に「死」を意識させるためではなく、
「生」を大切にすることを伝えにやってきたのかもしれない。
 
さっきのメモの下には、
こんなことも書いてあった。 

私は何がしたいのか?
どんな生き方をしたいのか?
私にとっての幸せとは何か?

私は、生きてこの先の人生を楽しむ、ということを選んだ。
 
***
 
抗がん剤治療をすると、
その副作用で生理が止まる。
治療後しばらくして生理が再開する人もいれば、
中にはそこで閉経を迎えてしまう人もいるという。
そのため、
「卵子凍結をするかどうか」
ということも決めなければならなかった。
 
なんだかSFの世界みたいですね…と、
私は先生に言った。
「卵子凍結」
という言葉をメディアで見かけることが
まだその当時はなく、
冷凍保存した人間を未来で目覚めさせる、
みたいなストーリーを私は頭の中に浮かべていた。
 
子どもを持つことを考えているか?
と先生から尋ねられ、私は困惑した。
パートナーもいないのに、
この先だっていつパートナーができるかも分からないのに。
子どもを持つかどうか、というより
持ちたいかどうか、なのだろう。
凍結をする場合、
卵子を採取する費用
そして保管しておく費用もかかる。
そもそも生理が戻ってくる可能性だってゼロではない……。

「 私 」にとって「 本当にしたいこと 」
なのだろうか?
これもまた、
「自分はどうしたいのか?」を考えるトレーニングになった。
 私は、自分の理想の未来を真剣に考えた。

そして、先生にこう伝えた。

「卵子凍結はしないことにしました
 子どもがいてもいなくても、どっちでもいいよ
 いなかったとしても2人で楽しいから
 そんなふうに言ってくれる人を
 私はパートナーにしよう、って決めたので」
  
***
 
抗がん剤の投与が始まると、
個人差はあるがだいたい2、3週間ほどで髪が抜け落ちてしまう。
それに備えて、早めにウィッグを用意しておくことを薦められた。
 
ウィッグ専門のサロンに行き、
髪の長いものから、短いものまで、
いろいろなタイプを試させてもらった。
中でも一番しっくりきて、
自分でも「似合う!」と驚いたのが
まさかの、「ショートヘア」のウィッグだった。
 
抗がん剤治療が始まる前のまだ長い髪を束ねて、
ウィッグ用のネットにしまい込み、
短い髪に変身した私は、鏡から目が離せなかった。
「今なら、自分で自分のことを《かわいい》と思えるのに……」
その時もまだ私の中で思いを断ち切れずにいた片想いの彼は、
好きな女性のタイプが「ショートヘア」だった。

髪が長くなければ女性らしさが出ない!
もう何年も心の中で声高に主張してきたスローガンを、
私は、やっとここで破り捨てることになる。
 
***

8月に乳がんの確定診断があったが、
治療を進めることを先生に伝えるとすぐに、
9月の頭から2週間おきに抗がん剤の投与を4か月に渡って行う、
というスケジュールが決まった。
胸にしこりのようなものがある
と最初に気付いた時と比べて、
その大きさが増していることが
自分でも触って分かっていた。

抗がん剤が始まると、
その副作用で免疫力が低下し、
そして食欲もなくなるため、
体力がじわじわと落ちていく。
味覚障害も起こり、
それまでおいしく食べられていたものが、
食べられなくなる。
今と同じような生活はしばらくできなくなるだろう……。
どれくらいで今と同じような生活に戻れるのか、
想像もつかなかった。
抗がん剤治療が始まる直前、
私は人生で初めて、1人で海外旅行に行った。 

行き先は、タイのバンコク。
我ながら未練がましくて、
今思い出しても笑ってしまうのだが、
好きな彼が他の女性と一緒にタイに行ったのがよほど悔しかったのだろう、
「私もタイに行ってやる!」と執念を燃やし、
急いでパスポートを取って
分からないことだらけで混乱しながらも
なんとか、ネットで往復の航空券とホテルを予約した。

現地で行く場所も
泊まるホテルも
全部自分で決めた。
そんなのみんなが当たり前のようにやっていることだと思うけれど、
私にはそれが新鮮だった。
いろいろあった嫌な気分に浸れなくなるほど、
頭を使って忙しかった。
自分で「自分の行き先を決める」
楽しい忙しさだった。

がんにならなかったら、
1人で海外旅行に行くこともなかったかもしれない。
この先に不自由があると予告されていたこともあって、
タイで過ごした1週間は、
私に自由を感じさせてくれた。
あちこち動き回れる。これが普通だと思っていた。
「治療が終わったら、また元気な私で旅行に行こう」
そんな夢を持ち帰れたことが、
私にとってものすごく価値のあることだった。 

***

治療中、先生が私にかけてくれた、
今でも忘れられない言葉がある。 

○○さんは、
自分で決められる自立した大人の女性だから。 
私はなにも心配してない。 


2024年6月、39歳 結婚

抗がん剤が奏功して、
「消えてしまったのでは?」
と思うほどにがんが小さくなり、
部分切除手術、放射線治療とたどって
2020年3月末に
私の一連の乳がん治療は終了した。
人生でこんなに学びを得た期間は他にないので、
「修了」と言ってもいいくらいだ。
 
私は乳がん・卵巣がんになりやすい遺伝子を持っているため、
(HBOC・遺伝性乳がん卵巣がん症候群)
その後も半年に一度のペースで検診を受けている。
今のところ再発もなく
(乳がんだったことを忘れてしまっているほど)
元気に毎日を過ごしている。
 
そんな私は、今年の6月に結婚(再婚)した。
私の夫は、
乳がんが見つかった当時に片想いしていた=他の女性とタイに行っていた
彼である。
 
人生、なんとも不思議なものだ。
 
「生きててよかった」
なんて言うのは安直だし、
あまりにも虫が良すぎるのだが、
生きることを選んだからこそ、の「今」である。
 
新婚旅行は来月。
彼と海外旅行に行くのは初めてのことで
少し緊張もするのだが、
とにかく楽しみでしかない。
 
2人で一緒に選んだ行き先は、
タイのリゾート、サムイ島だ。

 

抗がん剤治療1週間前のタイ旅行で
タイなのに、
シャンハイ・マンションというホテルを選ぶw
この世界観が好きだな、と思ったので
映画に出てきそうなノスタルジックな雰囲気で
とても楽しい滞在になった!
自撮りに慣れておらず顔がカチカチ(^_^;)
※画像加工されるアプリで撮影
リネアストリアという会社さんの
人工毛のウィッグを購入
かなり自然な見え方で、大満足!!
このウィッグのおかげで
人生が変わったと言っても過言ではない
私を支えてくれた、
感謝してもしきれないアイテム

外見コンプレックスがあったけれど
「私かわいいかも……」と
少しでも思えるようになると、
闘病中だろうが楽しくて無敵になるw

自分に自信のない女性におすすめしたいのは、
「私、素敵かも……」と思える状況を
積極的に!自分自身で作ってあげること(*^^*)
面倒だしパワーもいると思う
でも自分のためにね♪

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タイで訪れた
願いが叶うと言われているパワースポット。
現地のガイドさんに、
自分の病気のことを打ち明けたら
今日、ピンクガネーシャにお参りしたから絶対大丈夫!
と、私の手を握り、
目を潤ませながら励ましてくれた。
あの時は、本当にありがとう。
私は今、とても幸せです。

#自分で選んでよかったこと #乳がん #自己紹介

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