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映画鑑賞『12 Angry Men / 12人の怒れる男』1957年 <感想①>偏見は真実を曇らせる

アマゾン・プライムで視聴 1時間32分 1957年アメリカ、白黒映画
1954年のTVドラマの映画版 

  • 脚本(原作):レジナルド・ローズ(Reginald Rose 1920-2002)

  • 監督:シドニー・ルメット(Sidney Lumet 1924-2011)

  • 主役:ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda 1905-1982)はローズとともに共同プロデューサー

IMDb ( Internet Movie Database 現在はAmazon傘下 ) で、史上最も評価の高い映画の第5位 https://www.imdb.com/

本作に影響を受けたリメイク・翻案・オマージュ・パロディ作品が各国で作られている。


簡単なあらすじ


ニューヨーク郡裁判所。
父親殺害の罪で告発された、貧しいヒスパニックと思われる18歳の少年の法廷審理が終わり、12人の陪審員が陪審員室に入るところからストーリーがはじまる。
ニューヨークは、その年で最も暑い日だった。
いまにも雨が降りそうな空模様だ。陪審員室にエアコンはなく、扇風機は動かない。窓を開けてもむし暑い。吹き出す汗、そして煙草の煙。

陪審員室に集められた、名もなき陪審員12人(全員白人男性)。彼らは全く知らない少年の有罪か無罪を決めなければならない。
※配役が全員男性なのは、ニューヨークでは1968年まで連邦陪審員に女性は認められていなかったため。

これは陪審評議をめぐる映画だ。
12人の陪審員は名前で呼ばれることはない。陪審員1~12の番号で映画は進行する。
少年は無罪を主張したが、証言・証拠は、少年にとって非常に不利な状況。現状少年の有罪は揺るがないように見えた。
陪審評議の初めの投票で、陪審員8(ヘンリー・フォンダ)ひとりが、無罪に投票したところからはじまり、逆転で陪審員が全員一致で無罪になるまでを描く。

アメリカの民主主義と陪審制

作中「陪審制は民主主義のすばらしいところで、この国が強い理由」というようなセリフがある。
米国の陪審制は民主主義の実現にとって重要で、国家権力の濫用に対する防護壁とされている。職業裁判官より一般人の方が、より常識的で中立的な判断ができるという考え方による。
一方専門家でない陪審員のもつ偏見を排除しがたい、という不完全性をもっている。

結果が有罪でも無罪でも、無作為で選ばれたとはいえ、他人を裁くという陪審員の精神的重圧は大きいだろう。米国では陪審で無罪になった後で、怒った市民から陪審員が攻撃を受けるという事件が現実に発生している。

映画は、ほぼ陪審員室のみで進行し、判決言い渡しのシーンはない。事件の回想シーンもないため、事件については陪審員が話す内容で知るものがすべて。法廷の証言についてメモを取っていた者もいるが、各陪審員が話す内容には曖昧な点があり、全員が正しく証言を記憶しているとはいえない。
結局最後まで少年が犯人なのか無実だったのか、わからないまま終わる。
犯罪推理、法廷サスペンスとして見ようとすると、消化不良な内容かもしれない。

私は10年以上前に見たことがあったのだが、ナレーションなし、12人の名前もわからないため、議論が紛糾するシーンでは、初見だと誰が誰に何を言っているのか、会話についていけなかった。

今回は一度通しで見て、その後メモを取りながら2回見た。
テーブルの席順表を作ってみた。陪審員は番号順に座っているので見ながら会話を確認するとわかりやすい。

それと日本では現在行われていない陪審制についても、調べておかないと話が分からない。とくに、reasonable doubt(合理的な疑い)とは何か。

英米の陪審制は、犯罪事実の認定(有罪か無罪か)を陪審員が行い、裁判官が法解釈と量刑の判断を行う制度。陪審員は事件ごとに一般市民から無作為に選任され、評決は全員一致が求められる。
作中にも出てきたが、意見が分かれ、どうしても全員一致が無理な場合は、「評決不能」で新しい陪審員が選任されやり直しとなるようだ。
陪審評議に裁判官は介入しない。また米国では陪審で無罪が出ると覆らない。
作中の少年の事件では、陪審で有罪になると第一級殺人罪で死刑(電気イス)になる。

※日本でも1928年に陪審制を導入したが、1943年に中止された。2009年から裁判員制度が導入されている。

この映画の面白さはダイアログ

何回か見直すと、会話のやりとりから各陪審員の人となりが浮かび上がる。陪審員12人の人生、個性の一端がわかってくる。
とてもよくできた脚本だと思う。多くのリメイク、舞台化がなされているのも頷ける。見れば見るほど面白くなる映画だ。

事件に対する陪審員12人の向き合い方はさまざまだが、ほとんどの陪審員が有罪で決まりと気楽に考えていた。しかし、陪審員8の「有罪に合理的な疑いがあり、疑いがある以上有罪にできない」という主張に引っ張られ、しだいに偏見や暴言が出たり、つかみ合いの喧嘩寸前になりながら、有罪か無罪か、白熱の論争が展開されることになる。

有罪が証明されるまで被告は無罪であるという信念をもつ陪審員8が、どうやって有罪派を翻意させるか、その過程が見所だ。

陪審員8は、証拠・証言に「合理的な疑い」があることを明らかにする。
陪審員8の主張:
少年は貧しいスラムで育ち、父からの虐待を受けるなど悲惨な環境にいた。少年の公選弁護士はやる気がなく、十分な弁護がなされていない。有罪(死刑)と簡単に決めていいのか? もし間違っていたら? 
陪審員8は少年を弁護する立場で反論を試みる。
 
まず目撃者二人の証言について「〇〇が事実なら、なぜ△△は ▢▢ なのか?」のパターンで次々陪審員達に問いかけ、有罪派の考えを引き出したうえ、その不確かさを指摘する。

さらに犯行現場アパートの見取り図を使い、寝室と玄関までの距離と老人の歩く速度を検証し、証言の不確かさを示したりと、あの手この手で「もし証言が間違っていたら?」「間違っている可能性がある」と有罪派に訴える。熟考せず思い込みで有罪としていた陪審員達が答えに窮し、ひとりまたひとりと無罪に転じるところは見ごたえがある。

偏見は真実を曇らせる


苛立つ強硬な有罪派から、「スラムの連中は人間のクズ」などスラムや有色人種に対する偏見、暴言が出る。これに対し陪審員8は、
「偏見は真実を曇らせる。しかし偏見を排除するのは常に困難だ。真実は誰にもわからない。無罪は間違っているかもしれない。犯人を逃すかもしれない。それでも筋の通った疑問がある以上有罪にはできない」
これが「合理的な疑い」の肝心なところだ。

五分五分の膠着状態から無罪へ


無罪に転じた者が、自然と陪審員8の側に立ち無罪の可能性を補強する流れになる。彼らは陪審員8と共に強硬な有罪派を切り崩し、形勢逆転すると、少数になった有罪派への同調圧力が強まり、最後は全員が無罪を受け入れる。
無罪9:有罪3あたりからの、有罪派陪審員4、3に対する陪審員8の追い込みは迫力があった。強硬な有罪派は、自分の判断の正当性を確信しているため、反論されるたびに苛立ち、墓穴を掘る結果になる。

***END***
長くなったので②につづく。


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