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【京都寺町通を歩く】②廬山寺、元山大師堂厄除けの護符「角大師」が人気、紫式部邸宅址でもある

寺町通をはさんで梨木神社なしのきじんじゃの東向かいにある廬山寺ろざんじ。平安時代の天慶年間、第18世天台座主ざす良源が創建したお寺で、現在は天台圓淨宗という天台宗系の単立寺院です。


廬山寺の見どころ

  • 元三大師堂がんざんだいしどう(通常非公開)ー節分会せつぶんえ追儺ついな式鬼法楽(通称:鬼おどり)、洛陽三十三所観音霊場第32番札所(如意輪観音)、角大師つのだいし護符

  • この地は廬山寺が移転する以前、平安時代は紫式部の邸宅だったとされる。紫式部にちなむ「源氏庭」がある。大河ドラマ『光る君へ』の聖地巡礼で注目される。※邸宅と廬山寺は無関係

  • 御土居おどい跡 境内の東端に、1591年に造られた京都を囲む土塁どるいが残っている。国指定史跡、石標有。

廬山寺の概要

  • 所在地:京都市上京区寺町広小路上ル北之辺町397

  • 創建:天慶年間(938-947)

  • 開基:延暦寺中興の祖、慈恵じえ大師良源りょうげん元三大師がんざんだいし、912-985)比叡山天台18世座主

  • 正式名:廬山天台講寺ろざんてんだいこうじ※廬山は、仏教の聖地で中国江西省にある名山「廬山」に由来。

  • 本尊:木造 阿弥陀如来及両脇侍坐像 3体 平安末~鎌倉時代の作とされる(国指定重要文化財)

  • 国宝:慈恵大師自筆遺告※は東京国立博物館に寄託
    遺告ゆいごう:遺言状

廬山寺の歴史

  • 天慶年間(934-947)良源により、船岡山ふなおかやま南麓(北区)に与願金剛院よがんこんごういんとして創建。 

  • 1245年、法然の弟子である覚瑜かくゆが出雲路に廬山寺建立。

  • 1368年、与願金剛院が廬山寺を吸収、寺名は廬山寺(廬山天台講寺)。四宗(天台宗、密教、律宗、浄土宗)兼学道場となる。船岡山の南、東西に走る廬山寺通は廬山寺の旧地近くを通ることからの名。

  • 天正年間(1573-1593)寺町広小路上ルの現在地に移転

  • 1708、1788年の大火で焼失。

  • 1794年、仙洞御所せんとうごしょの一部を移築し本堂とする。

  • 明治維新までは御黒戸四箇院おくろどしかいん※のひとつだったが、神仏分離で廃された。

  • 1872年、天台宗寺院として復興。

  • 1948年、天台宗延暦寺派を離脱、天台圓淨宗として独立、天台宗系単立寺院となる。

※御黒戸四箇院:皇室の仏事を行った四寺院。御黒戸は清涼殿にあった仏間

元三大師堂

元三大師堂

比叡山横川よかわの元三大師堂は、開基良源の住居跡だった。
良源の命日が正月の3日であることから、「元三大師」の通称で親しまれている。
また元三大師は、日本で「おみくじ」を初めて考案したことでも知られる。

廬山寺の元三大師堂は、天明大火後1835年の再建。良源作という元三大師像がある。その御前立は鬼大師像(鬼面坐像)。通常非公開、特別公開時のみの御開帳。
毎月3日に護摩供ごまくを行っている。

節分会の追儺式鬼法楽

節分の2月3日は特別に「追儺式鬼法楽(鬼おどり)」が行われる。これは、宮中で元三大師が鬼を退治したという故事を元にしたもの。

赤鬼(貪欲)・青鬼瞋恚しんい※)・黒鬼(愚痴)が特設舞台に登場、護摩供を邪魔する。追儺師による邪気払いや豆まきなどで鬼達は門外へ退散する。
※瞋恚:怒ること

元三大師が鬼に変身した姿ー角大師

角大師つのだいしの護符(お守り)を貼っておくと疫病神の災厄から逃れることが出来るという厄除け信仰がある。これは一度見たら忘れられないユニークな護符だ。

元三大師と角大師(『天明改正 元三大師御鬮繪抄』1785年仙鶴堂発行より)Wikipedia

元三大師は如意輪観音の化身とされているため、如意輪観音の真言を唱える。
夜叉の形相、二本の角という異形の姿。この変わった護符の由来について、廬山寺のウェブサイトから引用する。

この異様な角大師の護符の起源については諸説あるが、疫病が都に蔓延していた時に疫病神が良源を襲おうとした際、試みに小指の先に疫病神を宿したところ激痛が全身を走り、高熱を発したという。これによって厄病神除去のために自らの姿を鏡に映しこれを弟子に写しとらせたというものであり、その際に鏡に写ったお姿が角大師だと言われている。 廬山寺ウェブサイト

https://www7a.biglobe.ne.jp/~rozanji/index.html

弟子がその姿を護符として刷って家々に配ったところ、戸口にお札を貼っていた家は疫病にかからなかったという。

SNSを見ると、コロナをきっかけにこの護符を求める人が多いようだ。比叡山延暦寺はじめ、京都では他に左京区の真如堂しんにょどう、大原三千院など元三大師堂のある寺で授与している。
廬山寺では通販も可能。
寺によると、貼り方は鬼門(北東)を避け、ピンではなくのりで貼るようにとのこと。

紙司柿本 中京区麩屋町通三条上ル

手漉き和紙で有名な、紙司柿本かみじかきもとさんのショールーム玄関にも貼られていた。本社は寺町二条。

正親町小路の南、東京極大路の東ー紫式部の邸宅址

紫式部の邸宅は、正親町小路おおぎまちこうじ南、東京極大路ひがしきょうごくおおじ東の一画を占めていたそうだ。かつてあった藤原道長建立の法成寺ほうじょうじ(1058年焼失)の北側、今の廬山寺周辺にあたる。
紫式部の曾祖父である藤原兼輔かねすけ(877-933、堤中納言)が建てた邸宅で、かつ父・為時の邸宅だった。藤原兼輔は、鴨川堤防の西側の邸に住んでいたことから堤中納言と称され、邸宅は堤第(堤邸)と呼ばれた。
紫式部もここに住んでいたと伝えられる。紫式部はこの地で育ち結婚生活を送り、『源氏物語』を執筆した。

▼紫式部の邸宅址とされたのは60年ほど前のこと。1965(昭和40)年、角田文衞つのだぶんえい博士(1913-2008)により発表された考証による。
紫式部の曾祖父藤原兼輔邸があったことと、室町時代の『源氏物語』の注釈書『河海抄かかいしょう』の記述が根拠とされた。
(参考:廬山寺ウェブサイト・紫式部顕彰会・フィールドミュージアム京都・Wikipedia)

角田文衞博士は、考古学と文献学を総合した古代史研究の新しい方法論「古代学」という学問体系を提唱した。古代学協会創設の中心となり主導してきた。

源氏庭

「源氏庭」なぜキキョウ

1965年に紫式部の邸宅として顕彰碑が建てられ、大師堂の東にある本堂に、源氏庭が築かれた。
源氏庭には 白砂と苔、キキョウ(桔梗)を配している。紫式部の邸宅にあったとされ、『源氏物語』に出てくる「朝顔の花」は今でいうキキョウだという。
▼キキョウの開花時期は梅雨頃から9月頃まで。源氏庭は拝観料が必要。

※『万葉集山上憶良やまのうえのおくらの歌にある「朝貌あさがほの花」はキキョウとされる。キキョウは夏の花だが秋の七草の一

理由はわからないが、キキョウは寺の庭でよく植えられているのを見る。

キキョウは「京都府レッドデータブック」では絶滅寸前種。近年個体数が激減し、山野ではほとんど見られなくなっている。

キキョウ 智積院で撮影


秀吉の京都改革事業、御土居


廬山寺奥にある墓地内に、1938年建立の「史蹟御土居」の石標がある。

御土居は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防として、天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。(京都市情報館)

https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005643.html

土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼ぶ
要所には洛外との出入口として、七口ななくちを設置。鞍馬口・丹波口・粟田口などの地名はその名残りだが、場所や名称は、資料によって異なるようだ。
御土居が造られたことで、それまで曖昧だった「洛中洛外」の認識に、物理的境界ができた。(しかし、時代が下がり御土居がなくなると、洛中洛外の認識はまた曖昧になってゆく)

江戸時代の天下太平の世では外敵の脅威もなく、御土居は次第に無用の存在となった。また市街地が洛外に広がるにつれ堤防の役割を果たしていたものなどを除き次々と取り壊された。
1930年、市内に残る御土居のうち8箇所が、重要な遺構として「史跡」に指定、1965年さらに1箇所(北野天満宮境内)追加、現在9箇所が指定されている。(参考:京都市情報館)

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