見出し画像

『義』  -吉田の過去(後)- 長編小説




吉田の過去(後)

「柔道の推薦で高校へ入学した頃、ここの地下施設に出入りしている、ある男と出会った。その日は、深夜の河川敷で不良を相手に独りで戦っていた。相手は十人くらいいただろう。まあ、柔道では黒帯を締め、拳も使い慣れていたから、不良たちはすぐに伸びてしまった。すると、ある男がやって来て『紹介したい場所がある。着いてこい』と言って、俺を呼んだ。俺が男の車に乗り込むと、男は行き先も告げずにアクセルを踏んだ。男の正体はヤクザなのだろうか、と勘ぐってみるも不思議と恐怖はなかった。強くなれれば、誰でも構わなかった。強くなるために、感情が荒ぶっていた。 

 西新宿の都庁前で男の車が止まり、俺は降ろされた。それから、男と俺は地下施設へ降り、格闘技が繰り広げられる会場に着いた。世間知らずの俺にとって、衝撃的な光景だった。大都会の地下で、格闘技の賭博が繰り広げられているわけだ。男はにやりと笑って『君も出たいだろう』と聞いてきた。もちろん、戦う意思を見せた。高校の部活や、威勢が良い不良を相手にしても、強くなっているとは到底思えない。又リングを見ていると、痺れるような快感が肉体を駆け巡ってゆくのが分かった。俺は強くなるために、リングに立ちたかったのだ。

 そして、さっそく試合の日程を組んで貰った。誰が来ようとも、負ける気がしない。いや、元のために負けるわけにはいかなかった。

 男と会って一週間後、初めてリングに立った。リングマットの感触、手にはめるグロープ、マウスピース、頭上に太陽のように輝く照明、富裕層が向ける異様な目差し、これらの全てが始めての経験だった。レフリーが上がり、対戦相手が上がってきた。ゴリラのような外国人だった。

 ゴングが鳴り、試合が始まった。対戦相手は、猪のように駆け出し、俺に向かってきた。威圧、速度、殺気、全てに危惧し、少しだけ退くと、一気にコーナーに追い詰められてしまった。コーナーを背にし、無心で顔面を覆っていると、相手の拳が俺の肉体に食い込んでくる。止まることなく。まるで銃器が飛び交う渦中にでも飛び込んでしまったように。痛烈な痛みが肉を裂き、骨を裂いてゆく。だが、負けるわけにはいかない。例え、国境を超えて凱旋してきた、プロ格闘家でもだ。俺の痛みなんてのは、元の苦しみと比べると、蚊が刺すような陳腐なものだ。

 相手は打撃で鎮めようとしていた。会場は相手の打撃に合わせて、歓声が沸いていた。ガードで凌いでいた俺は、一瞬の隙を探し出し、相手に掴みかかり、脇の下に手を回した。すると、偶然にも得意の体制になった。下半身に力を入れ、一気に大外刈りを仕掛ける。柔道の鍛錬が活きた。相手は狼狽し、宙を舞ってリングに沈んだ。俺はすかさず馬乗りになり、顔面に拳を振り落とす。相手は、必死に顔をガードした。無心だった俺は、固く握った拳を何度も振り落とす。すると、レフリーが俺と相手の間に割って入り、試合が終わった。

 会場内に、歓声と拍手が席巻した。番狂わせだったのだろう。

 俺はコーナーに戻り、男の支持を仰いだ。男は不穏な笑みを受かべ、賞金の一部を俺にくれた。大金だった。俺は金のために、戦っているわけではない。しかし、将来のことを考えると、受け取る方が賢明だろうと判断した。男の駒だろうと、富裕層の賭博の駒だろうと、構わない。地下施設のリングは、強くなれる場所だった。

 それからは、柔道部を辞め、学校へは最低限の出席をし、リング上での格闘の日々が続いた。強者との苦戦が続くこともあったが、決して負けることはなく、格闘技術はみるみる向上していった。それは本望だった。元の言葉を忠実に再現するために。高校卒業と同時に親は、病気で死んだ。涙は出なかった。不安もなかった。賞金にて、捨てるほど金が貯まっていたからな。家を出て、新宿にて独り暮らしを始めた。地下施設のリング、元の眠る墓、自宅、この三つを周り続けた。働き蟻のように、何の疑問を持つことなく。

 三十歳になった頃、肉体の老化を感じ始めた。それまでは、心と肉体は一体だった。送り出す無数の司令を、筋肉が性格無比に成し遂げる。精巧に作られた、電子回路のように。しかし、肉体が老化し始めると、若干のズレが生じる。この若干のズレは、リング上では致命傷だ。銃身の歪んだ銃を持って、戦場に立っているようなものだからな。しかし、負けるわけにはいかない。俺が負けてしまうと、元との約束を破ってしまうことになる。模索に模索を重ね、BARで飲むバーボンへと行き着いた。バーボンを飲むと、心と肉体が一体となった。もちろん、バーボンは麻薬のようなものだと、理解していた。それでも構わなかった。強くなるためならば。

 バーボンにて、老化を騙しながらリングへ上がり続けた。

 月日が流れ、実は先週、多磨霊園にて元の母に会った。山岡幸子さんに。俺が手を合わせて参っていると、幸子さんが後ろに立っていた。俺が振り返ると、幸子さんは小さくお辞儀し『いつも、元のために、菊の花を供えていただきありがとうございます』と言った。俺が一礼すると、幸子さんは微笑んだ。

 会話することなく、幸子さんは墓参りを終えて帰った。俺は再び、向日葵の活けられた墓に参った。手を合わせて、元との思い出を想起すると、急に肉体が弛緩し始めた。リラックスとでも言うべきか。いや、そんな稚拙なものではない。元の死後、止めることなく積み上げ続けていた肉体の緊張が、一粒の氷を砂漠へ落としたように、溶けてゆく。蕩けてゆく。

 すると、元の声が聞こえた。張りのある、懐かしい声だ。『ありがとう。雅彦くん、強くなったね』と。

 その瞬間、俺は、元と約束が終焉したと直感した。老化から逃避したい感情が生み出す、幻聴だと思うかも知れないが、それは違う。正しく元の声だった。俺の求め続けた、元の声だった。何故聞こえたのだろう、と疑いはしない。疑う必要がない。

 その後、試合の勝ち負けが、どうでもよくなった。富裕層の賭け事が勝とうが負けようが、俺の知る由もない。俺が求めていたのは、永遠の強さではなく、元が残した言葉を成し遂げることだ。それが、友のため、『義』のため。

 全てが終わったのだ。すまない、少し長くなった・・・」

 吉田は話し終え、威厳に満ちた表情が霧消し、少年のような柔和な表情に変わった。それは、山岡家のアルバムから、抜け出たような純真な表情だった。吉田と元の約束が終焉した、と大輔も悟った。

「これから、リングへ上がることはないのでしょうか?」

 大輔は乾いた声で問い掛ける。吉田の回想へ没頭し、唾を飲むのも忘れていた。

「予定されている試合があるから、上がる羽目にはなるだろう。どうあがいても、富裕層の駒だからな。それに、強くなる機会を提供してもらった恩義もある。いずれにせよ、俺のやるべきことは終焉したわけだから、どのような未来が来ても構わない。短い期間だったが、セコンドに付いてくれてありがとう。励みになった」

「俺は吉田さんの活躍をもっと見たいです。美しい吉田さんを」

「ありがとう。でも、こんな肉体では、リングに沈む姿ばかりを見ることになる。それでも、構わないのかい? 若く勢いのある格闘家から、投げ飛ばされ、馬乗りされ、この顔が醜くなるほどに殴られ、真っ赤な血を流す。俺がリングへ上がり続ける限り、幾度となく見ることになるだろう。君はセコンドとして、滅びゆく肉体を見てくれるのかい?」

 大輔は吃った。血を流す吉田の肉体は、果たして美しいのだろうか。老化し、皺だらけの吉田は、果たして美しいのだろうか。決して、美しくないだろう。それは理解している。

 『義』の象徴だった吉田は、約束の終焉で、影が消えかかっていた。もしかすると、これからの吉田は煩悩の赴くままに、突き進み、遊楽に耽る道を歩くかも知れない。結婚し、中年太りし、醜い肉体に変わるかも知れない。来るべき未来を妄想し始めると『義』の定義が、根底から揺らぎ始めた。

「俺は、吉田さんに好意を抱いていています。ですが、試合に負ける吉田さんを見るには、嫌です。醜くなる吉田さんを見るのは、嫌です」

「偽りなく、言ってくれてありがとう。その純真さが、大輔の良いところだ。だから、俺の勇姿を見て欲しかった」

 吉田は声を上げて笑った。

「吉田さん、『義』とは?」

「『義』とは、貫く正しい道筋。俺は友のために、戦い続けて、一つの『義』を全うした。墓で眠る元も笑顔で見ているだろう。全ての人間が、大なり小なりの『義』を持って生きているはずだ。言葉と同じように、目で見えないが、心のどこかで小さな仕事をしている。大輔は、大輔らしい『義』を探すべきだ」

「僕らしい『義』・・・」

「そう、大輔らしい『義』・・・。あとは、大輔の役目だ。俺が教えられるものではない。さあ、地上へ上がろう。墓参りして、負け試合の報告をしなければならない。長い夜が明けた」

 吉田は立ち上がり、スーツに着替え始めた。

 二人は部屋を出て、階段を登り、地上へ上がった。警備員が無愛想な若者に替わっていた。

「吉田さん。俺も行きます」

 大輔は吉田に近付く。

「すまない。今日は、一人で行かせて欲しい。元と話したいことが沢山ある。そう、悲しい顔をするな。機会が有れば、又会えるはずだ。俺は素晴らしき街、東京にいる」

 大輔は俯く。

「大輔、時間が経てば、悶々とする感情も治るはずだ。時間の経過は、単に肉体を老化させるものではなく、感情を崇高なものへ作り変えることも出来る。人間は尊い。では」

 吉田は大輔に背を向け、颯爽と歩き出した。気品溢れるスーツの形が崩れ、皺が付いている。大輔は、スーツの皺を伝えたかったが、何も言わずに見送った。

 雨を降らせていた雲が消え、青空が覗いていた。蒸し暑くなりそうな匂いが漂いだしている。大輔は若い警備員の視線を感じ、路地に作られた水溜りを避けながら、新宿駅へ駆け出した。

 新宿駅にはスーツを着た会社員が溢れていた。大輔は、行き交う人の顔を見ながら、改札、階段、ホームへと歩く。彼らの一人一人が、何らかの『義』を持っているのだろうか。吉田の言った通りの、大なり小なりの『義』を持っているのだろうか。分からない。

 人の疎らな下り電車に乗り込み、黙考する。吉田の敗戦、吉田の肉体美の倒壊する予兆、吉田の『義』と自分の『義』の乖離、暗澹たる気持ちは広がっていった。

 扉が閉まり、酒の匂いが漂う電車は新宿を出発し、東京の街を掻き分けながら進んだ。


続く。

花子出版   倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。