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『義』  -吉田は戦っていた- 長編小説



吉田は戦っていた

 新宿の街は変わらず活気に満ちていた。大輔は行きつけとなったBARのカウンターに座り、吉田を待った。店内は賑わい、雑談が飛び交っている。大輔は、東京へ帰ってきたのだ、と改めて複雑な感情が生起した。カウンターに並ぶ横文字のラベルが貼られた酒瓶を眺めていると、女の店員がバーボンを運んで来た。大輔は会釈し、バーボンを飲む。

「バーボンを、お好きになったんですね。とてもお似合いですよ」

 店員は、大輔がバーボンを飲む姿を見て、静かに褒める。

「ありがとうございます。このBARで飲むと格段に、美味しいですね。良質な氷だからかな。とても、不思議」

 大輔はグラスを揺らした。

「吉田さんは、まだいらっしゃらないですよ」

「よかった」

「大輔さんは、吉田さんと話をするために、ご来店されていますもんね。この前は、すっごく仲良さそうにお話しされていて、私もオーナーも驚いたんですよ。あの、寡黙な吉田さんが何故? と、店中の話題になっていました。何か秘訣があるのでしょうか?」

「いえいえ、ここのバーボンが美味しく、話が進んだだけですよ」

「口がお上手ですね。普段、お二人はどんな会話をされるのですか?」

「他愛もない男同士の話ですよ」

「男同士の話ですか。すごく素敵ですね。私って、こう見えても男勝りなところがありまして、子供の頃は凄くやんちゃだったんですよ。男の友達ばっかりで、泥んこ遊びの毎日。男と遊ぶって、楽しかったなあ。私は、何故だか、お人形さん遊びが受け付けなかったんです。母さんからは、呆れられました。でも、成長してゆくと、いつまでも男とばかり遊ぶわけにもいかないんですよ。中学生になると、男は女を変に意識し始めるんですよね。大輔さんも、経験あると思いますが。そうなると、こっちも保身のために意識せざるを得ません。そうやって、私もいつのまにか女になったわけです。ちょっぴり、淡い思い出ですね。来世があるなら、絶対に男として産まれます」

「確かに、幼少期は男と女の境界線なんて、殆どありませんよね。プールに入った後、一緒に裸になって着替えたり、お昼寝もくっ付いてします。考えてみると、不思議だ」

「男の性欲が強いからではないでしょうか? 巷には性風俗店が溢れかえっていますよね。でも、女用の性風俗店ってあんまり聞きませんよね。男の性欲が抑えられているなら、女がもっと生きやすいじゃないかな。もしかすると、吉田さんって、風俗関連の仕事をされていたりして」

 店員は空笑いした。小馬鹿にする空笑いだった。

「それは、絶対に違います。吉田さんはそのような男ではありません」

「では、何故、あんなにお金持ちなのでしょう?」

「それは・・・。分かりません」

 大輔は吉田の仕事を知っていたが、答えることはなかった。地下施設の規約に反するからだ。既知を未知と振る舞うことは、まるで手を縛られ、吊るし上げられている心地だ。大声で、友のため、『義』のために戦う吉田の勇姿を、力説したかった。

「風俗関連のお仕事だと思うんだけどなあ。新宿の街なら、風俗関連が手っ取り早く、一番儲かりそうですもんね」

「風俗関連以外にも、多くの仕事がありますよ。男らしく、もっともっと崇高なお仕事が。もちろん、性欲まみれの堕落しきった男もいますから、風俗関連で莫大な富を育んでいる人もいるでしょう。それは、残念ながら事実です」

「吉田さんは、その、崇高なお仕事の方を?」

「恐らくは」

「興味深いですね。どんなお仕事なんだろう? お仕事される姿を見てみたいな」

 店員は瞳を輝かせた。丸木は店員の視線から逃れるように、手に持ったグラスを揺らし、中で転がる透き通った氷を見た。

「グラスが空ですが、追加注文なさいますか?」

「バーボンロック。ダブル」

 大輔は小慣れた口調で注文した。

 暫くすると、吉田が来店し大輔の隣へ座った。

「吉田さん、お久しぶりです。僕は実家に帰省していました」

 二人はグラスを重ね、乾杯をする。大輔は一口飲み、店員の動向を気にしつつ、静かに話を始めた。

「試合は順調でしょうか?」

「ああ。外国人のジャクソンと対決して以降は、弱い選手ばかりとの対戦だからな。苦戦もない」

「流石ですね。やはり、吉田さんは、超一流です。俺の憧れです」

「そんなに、誇れるものではない。名誉のある仕事ではなく、脚光を浴びることなく、ただの隠れた仕事。強くなるためだけに、やっている仕事だ」

「でも、高級なスーツを着て、高級な車に乗っていらっしゃいます。そして、高層マンションに住んでいらっしゃいます。十分に成功者として誇れると思いますよ」

「このスーツを着ていることも、外国の車に乗っていることも、単なる気晴らしの一つ。やめろ、と言われれば、すぐにやめる。俺には身寄りがなく、誰かを扶養する義務はない。遺産を残す必要もない。札束を自宅へ置いて置くと、鬱陶しいから、定期的にばら撒いているだけだ」

 吉田は決して偉ぶらず、淡々と言葉を吐いた。

「経済を回していらっしゃるので、十分素晴らしいと思いますよ」

「大輔がそのように思うなら、思ってくれても構わないが、俺はこの頽廃した世の中にて、社会性や協調性を持とうと思わない。何故なら、それらは、人間を堕落させるからだ。俺は友のために戦っているだけだ。それは友のためであり、大輔が好きな『義』のためであろう。それ以外の全ての事象、例えば、五感で味わう粗雑な感覚や、煩悩に揺れ動かされる幼稚な感情などは、すでに魂から削ぎ落としている」

 吉田はバーボンを飲み干した。大輔は言葉が出ずに、見惚れてしまった。心の全て、いや魂すらも吉田へ奪われてしまった。

「今日は、セコンドに立たせて下さい。吉田さんの勇姿を見たいです。もちろん、お金は入りません。そして、実は汗拭き用のタオルと飲み物も準備して来ました。俺なりに、吉田さんの力になりたいのです。もし、鞄の持ち込みを警備員に止められましても、頑張って交渉しますから、お願いします」

 大輔が力強く言うと、テーブルの後片付けをする女の店員が振り返った。話を聞かれたのだろうか、と大輔は危惧する。店員は、何事もなかったように後片付けを再開した。

 吉田はピン札を取り出してカウンターに置き、立ち上がった。

「着いてこい」

 大輔は吉田の後を歩いた。

 地下施設に降り、吉田が純白色のパンツに着替え、二人は会場へ向かった。大輔は、異様だと思っていた地下の空間に順応してゆく自分が、多少恐ろしく、多少可笑しくもあった。長閑な田園風景の実家の村に住んでいては、生涯味わうことは不可能だろう。そんな田舎生まれの男が、偶然なのか必然なのか、地下施設に足を踏み入れている。それも数回も。

 会場に入り、ソファに座る気品溢れる富裕層を余所目に歩き、リングサイドに着いた。吉田はパイプ椅子に座り、腕組みをし、瞼を閉じる。

「今日は、どんな相手でしょうか?」

「無名だろう」

「分かりました。頑張って下さい」

 大輔はそれ以上口を出さなかった。吉田の眉間が、瑣末な言葉は不必要だ、と物語っていた。

 会場がざわつき始め、相手側コーナーへ選手が到着した。相手選手は穏やかな表情をした、長身の日本人だった。

 レフリーがリングへ上がり、マイクを握った。

「青コーナー 吉田 雅彦」

 吉田は俊敏な動きでリングに上がる。

「赤コーナー 金子 ゆうき」

 対する金子がリングに上がる。

 ゴングが鳴り、リング上の二人は間合を探り合いながら、距離を詰めていった。

 大輔は、吉田が負けることはないだろう、という妙な安心感があった。穏やかな金子の動きが拙く感じるからではなく、BARで語った吉田の言葉が安心感を与えてくれた。吉田は友のため、『義』のために戦っている。万が一『義』が負けるとなると、大輔の糧とするものがなくなり、日々積み上げてきた、思想のロジックが根底から崩れてしまう。城の石垣を崩すように。そんなことが有ってはならない。自縄自縛になっているだけだろうか。いや、それは違うはずだ。これこそが男に理念であり、男の思想だ。勝手に結論付けながら、拳を硬く握り締め、肉体のぶつかり合いを見届けていた。

 金子は長身を生かしてジャブを繰り出す、吉田が距離を取ると、左足のローキックも繰り出す。吉田を間合いに、入れさせない戦法だ。吉田は不動の心で、防御を固め、相手の柔な攻撃を躱し、時には受け止めながら、無謀な駆け引きに挑むことなく自分のペースに持ち込んでいった。

 試合は、一見退屈そうに続いた。ソファに座る観客からは、揶揄混じりの小言が漏れていた。大輔はリングを見ながら、横目で観客の言動を楽しんだ。

 試合が動き始めた。金子は長い足を、引き摺り始めた。吉田が放っていたローキックのダメージが蓄積され、金子の足は真っ赤に腫れ上がっている。金子の柔らかい表情は消えさり、自身の矜持と、背後のセコンドから囁かれる罵声によって、握りつぶしたように逼迫していた。吉田は足を引きずる金子へ、容赦無くローキックを浴びせてゆく。リング上では、道徳心は不要だ。

 吉田の鋭いローキックが、金子の腫れ上がった脚に突き刺さった。肉を裂くような音が、会場に響いた。次の瞬間、金子はリング上に崩れ落ちた。吉田は背を向けて、青コーナーに戻ってくる。吉田の大きく膨らんだ胸筋に、汗が輝いていた。金子は必死に立ち上がろうとするも、脚の神経を抜かれてしまい、立ち上がることが出来ない。

 レフリーが両手を振って、試合を止めた。当たり前のように、吉田は勝った。

 吉田がリングを降りると、大輔は持ってきた汗拭きタオルを渡した。吉田は受け取り、首に掛けた。

「流石、吉田さん。余裕でしたね」

 大輔はパイプ椅子に座る吉田に声を掛けた。吉田は下を向き、肩で息をしつつ、辛そうな表情をしていた。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫だ」

 吉田は呼吸を整えながら答えた。覇気が薄らいでいる。大輔は心配そうな面持ちで、吉田の身体を舐めるように見入る。吉田の目尻には、複数の小皺が現れていた。肉体を鍛錬し続けても、経年劣化には耐えることが出来ない。そんなことは、子供の頃から理解していた。吉田の格闘生命を危惧する。吉田がいつまで戦い、終着点は何処なのだろうか。

 賞金を受け取り、二人は会場を出た。部屋に入り、吉田は浴室でシャワーを浴びる。大輔はソファに座り、吉田のために何か出来る事がないかと模索する。テレビを点け、吉田がいつも観ている田舎の田園風景の空撮を流した。出来る事がなく、情けなく思うも、他に浮かばない。

「大輔。飲み物準備してくれたのだろう。頂くよ」

 浴室から出てきた吉田は、身体を拭きながら言った。

「あ、すぐに」

 大輔は鞄から、ペットボトルに入った蜂蜜と檸檬入りの手作りのジュースを取り出し、吉田へ渡した。

「大学のトレーニングルームのインストラクターに聞いて、特性ドリンクを作ってきました。吉田さんの、お口に合うと良いですが」

 吉田はペットボトルを受け取ると、蓋を開けて一気に飲み干した。

「どうでしょう?」

「ありがとう。とても美味しかった」

 吉田は空になったペットボトルを大輔に返すと、下着を着始めた。大輔は空のペットボトルを見て、表情が綻んだ。

 二人はソファに座り、テレビに流れる空撮風景を眺めた。大輔は実家と同じような風景の連続に退屈しつつも、吉田と時間を共有出来ることへの嬉しさが募った。

「大輔。丁度一週間後だが、用事あるか?」

「夏休みですので、特にありません。大学生の夏休みなんて、呑気なものですよ。何かお手伝いが必要ですか?」

「なら、またセコンドについてくれないか?」

「もちろんです。是非、一緒に戦いです。強い相手との対戦ですか?」

 吉田は顔を顰めて、首を振る。

「決して強い相手というわけではない。極真空手出身の、小ぶりな格闘家だ。一般的に言うと無名だろう。しかしながら、嫌な予感がするのだ。今までにない、嫌な予感が」

「まさか、それは、吉田さんが負けるということでしょうか?」

「分からない。しかしながら、この仕事を長くやっていると、そう言った感覚が鋭くなるのだ。未知の未来を、独りで切り開いていくには、少々疲れたようだ。俺も、歳を取ってしまった。だから、大輔にはリングを見届けてほしい」

「吉田さんに、そんな弱音は似合いません。きっと勝てます。いや、絶対に勝てます。確証はありませんが、負けて貰っては困ります。万が一負けてしまうと、俺の中での『義』の象徴がなくなってしまいます。自分本位で傲慢な当てつけ、大変申し訳ありませんが。それに、亡くなられた山岡元さんも、応援されています」

「ありがとう。君の気持ちは分かった。勝てるように、精進する」

 吉田は瞼を閉じ、ソファに凭れ掛かった。吉田の目尻にはやはり、小皺が目立っていた。大輔は吉田から目を逸らし、テレビに映る田園風景を眺めた。

 明け方、二人は地下施設から地上へ上がり、挨拶することなく別れた。吉田は多摩霊園へ向かうために、歩き出す。大輔は立ち止まり、吉田の後ろ姿を見届けた。高層ビルのガラスに反射した朝日が、吉田の背中を照らしていた。吉田のジャケットには、皺一つなかった。

「君も、物好きだねえ。吉田さんのお弟子さんみたいになって、地下施設に通っているなんて。なかなか危険な場所なんだけどなあ。普通の神経なら、一回でお腹いっぱいになりそうなもんだけれど」

 いつもの老成した警備員が、大輔に話し掛けた。

「社会勉強のために、降りているわけではありません。お金ために降りているのではありません。俺は吉田さんが好きなのです。いや、好きという言葉だと幼稚に聞こえますが、恋愛感情のような甘酸っぱいものではなく、俺の精神も肉体も差し上げます、との感覚に近いのでしょうか。うーむ。言葉では説明し辛いものです。こんな説明でご理解出来ますか?」

「まあ、分からなくもない。吉田さんは、男の中の男だからなあ」

「正しく。警備員さんは、ここのお仕事は長いのでしょうか? 吉田さんが、どの位の期間お仕事されているのかを知りたいのですが」

「本当に物好きだなあ。前にも話した通り、地下施設に出入りする人間の素性は話さないことになっている・・・。だが、お前さんの純真な心に免じて話してやろう」

 警備員の表情が緩んだ。実は話したくて仕方がないのかも知れない、と大輔は警備員の仕草を見ながら思った。

「ワシは、今、還暦の六十歳。若い時から、ずっとこの仕事を続けている。勤続何年だろう。数えたこともない。ワシは、奥さんと湘南に住んでいる。子供は二人いるが、自立して、地方で会社員をやっている・・・。と、ワシの話をしても、仕方がないな。歳を取ると、ついつい無駄話をしたくなるんだな。死んでしまったり、疎遠になったりと、周りにいた話を聞いてくれる人が少なくなっていくからなあ・・・。あ、すまん、すまん。吉田さんが、この地下施設にやってきたのは、彼が高校生くらいの時じゃなかったかなあ」

「高校生? 高校生なら深夜徘徊で補導されると思いますが」

「何を、馬鹿げたことを、この地下施設は治外法権じゃ。認められた人ならば、誰でも入れる。認められた人ならばじゃ。ワシも死ぬまでに一度は降りてみたいが、未だに認められておらん。だから、慎ましく警備員をやっている」

「吉田さんは、誰に連れられて来たのでしょうか?」

「それは、教えることは出来ない。お前さんが、吉田さんの弟子でもなあ。ワシも命が惜しいからねえ。すまない」

「吉田さんは、若い時から寡黙でしたか?」

「もちろんじゃ。体格や服装は変わっていくが、厳格な性格は全く変わらない。ありゃ、まるで岩じゃ。鋼じゃ。ダイヤモンドじゃな。まあ、言えることはこの位じゃ。あとは、お前さんから、吉田さんへ聞きな。一番弟子だから、何でも教えてくれるだろう」

「色々とありがとうございます」

 大輔が礼を言うと、警備員は空を見上げた。数羽の烏が、青い空を横切っていった。

「今日も、暑くなりそうだなあ」

「ええ」

 二人は遠くから聞こえてくる、酒の匂いと共に暮れる新宿と、会社員の足音にて明ける新宿の奏でる協和音に耳を傾けた。



続く。


花子出版  倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。