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なぜ人は戦うのだろうか シベリア抑留

こんにちは

私の祖父は終戦後、捕虜となりシベリアに三年間もの間抑留されていました。祖父が生き残ったからこそ、花子出版の記事を更新できると思うと、計り知れない畏敬の念を抱きます。

私の親族は、数年前シベリア抑留の現地を取材されました。そのことを直接お伺いしたいと思いつつも時が流れ、先月に帰熊した際、色々とお話をお聞きしていました。
世界情勢が落ち着きましたら、私もシベリアに取材したいと考えています。祖父が見ていた景色を私も見なければなりません。いつになるやら・・・。

昭和20年に8月15日終戦を迎えました。
その2日後には、祖父は捕虜となってしまったのです。祖父は20歳の若き青年です。私は20歳の時は、学生でした。武道に勤しみ鍛錬の日々でしたが、安普請のアパートがあり、友人があり、アルバイト先の賄いがあり、命が危険にさらされることは微塵もありませんでした。更には、開かれた未来への期待に胸を膨らませ、日々を過ごしていたことでしょう。勿論、多少の不安はあったでしょうが、抑留者である祖父の不安に比べると、天と地ほどの隔たりがあります。

祖父は、ザオジョルヌイ(Zaozërnyi)のウラル村に抑留されます。ウラル村には、日本人が1500人収容され、抑留中に286人亡くなりました。
抑留中に、炭坑の仕事をします。日本のように温暖ではなく、寒い村です。
また、戦時中ということもあり、食料が僅少です。
想像もできないほど過酷で、果てのない日々の繰り返しだったことでしょう。

そんなウラル村の住民は、抑留された日本人のことを悪く言う人はいないとのこと。
現地には、日本人が建てた建物もいくつか残っています。
同じ村民として扱われ、貧しい時代を共に乗り切られました。

上記のことは、私にとって非常に重要であります。勿論、多くの死者がでていますから全ての抑留された日本人が村民と同様の扱いと受けたわけではないでしょうし、又抑留された場所によっては奴隷のように過酷な勤労をさせられた場合もあったでしょう。
重要に感じる点は、次の通りです。
貧しいウラル村に1500人の日本人が収容され、村の食料を分けるわけです。
そして、貧困を共にする。私の祖父もそうですが、戦争は一般市民が被害に巻き込まれるわけです。
幸せを享受するために人間に生を受けているはすが、一部の上流の過激思想で、一般市民が巻き込まれ、不幸に陥る。それは、戦争の勝ち負けに問わずです。戦争について、深慮します。

取材はもう少し詳しく行いましたが、デリケートな内容であり、どこまで書くべきか、今の私には判断が出来ません。
私がロシアを訪れた際に、追って記事を更新したいと思います。


最後になりますが、「戦争」と聞くとアレルギー反応のように口を閉ざしてしまう現代ではありますが、しっかりと正しい歴史観を身につけ、事実を冷静に判断し、人間の幸福のために生きていきたいと、私は思います。
それが、戦争で亡くなった先人方への、大義であります。



磨穿鉄硯で、精進します。

花子出版   倉岡剛



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。