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『義』  -大輔、東京に帰る- 長編小説



大輔、東京に帰る

 大地を潤した雨が上がり、うっすらと靄がかかる朝涼の頃、大輔はレンタカーの後部座席に鞄を放り込んだ。健斗と咲子、父母が玄関前に立っている。彼らは眠そうな目を擦っていた。

「身体に気つけろよ。また、帰ってこいや」

 父が言うと、玄関前の三人が、各々適当な言葉を並べた。

「じゃ」

 大輔は車に乗り込み、エンジンを掛けた。手を振る四人をバックミラーで眺めながら、庭先へ出て、細い道路を慎重に進んだ。東の空が山吹色に染まり、村の一日が明け始めた。

 中学、高校と通い慣れた通学路を、自転車ではなく車で走る。窓を全開にし、清澄な風を頬で感じていると、車を飲み込もうと覆い茂る森に懐かしさを覚え、踏み込んでいるアクセルを徐々に緩めてゆく。歩く速度まで落とした。燃費が悪いだろうが、どこ吹く風。対向車も追随車も現れず、ゆっくりと情景を味わう。

 レンタカーを独りで借り、世界中の網目状に広がる道路を我が物顔で走れる。大人になった証だ。それは、嬉しくもあり、又恐怖でもあった。職業の選択、飲酒喫煙など法の中では全てが自由だが、自由さ故に転がっている足元の石を見落としてしまわないだろうか。流れが速すぎるが故に、見落としてしまわないだろうか。微細な不安を覚えつつも、飛行機の搭乗時間があるため、車を止めることは出来ない。思慮に難渋しつつ、アクセルを踏み込むと、遠慮することなく速度が上がってゆく。ちょっとは遠慮しろ、と車へ嘆くと、人生の一部を垣間見た気がした。

 機体の降下に伴い、流暢なアナウンスが流れた。離陸以降、死んだように寝ていた大輔は、瞼を開けて窓を眺めた。離陸時に見た熊本の樹々と入れ替わるように、地平線に高層ビルが幾何学的に聳え立っていた。田舎者と思われまい、とすました表情を作りつつも、大都会への憧憬にて心は高揚していた。健斗の言っていた東京のイメージが、嘘のようだ。洗練された近代文明の街に降り立つ心持ちだ。

 しかし、荷物を受け取り電車に乗ると、健斗の意見に同意せざるを得なかった。熱された都会の空気が、扉の開閉の度に流れ込む。更には、乗客の表情が逼迫し、殺気立っている。電車内で右も左も塞がれていたら、仕方ないのだろう。大輔は辟易しつつも、自宅のアパートを目指して電車を乗り換えて向かった。

 アパートに着き、エアコンをフル回転させる。暫くすると、部屋がオアシスへと化け、顔を出した汗が逃げ出した。ベッドに仰向けになり、天井を眺める。何故だか、実家で寝っ転がるよりも心身が安堵した。誰からも、干渉がないからだろうか。血の繋がった家族へ、身勝手な念を送った。罪な男だから許してくれ、と。

 すると、携帯電話が鳴った。健斗からは、感謝について律儀な文面で綴られていた。文学青年だけあって、綺麗な文面だ。大輔は、久々の東京にて浮かんだ感情を文字に起こしたが、田舎生活を満喫する健斗に対して水を差す行為に思え、『また、会おう』と一言だけで返信をした。

 携帯電話を放り、手持ち無沙汰になる。鞄を整理していると、本が出てきた。健斗が本棚から選んでくれた一冊だ。読書の習慣のない大輔は、ベッドに仰向けになり、猿真似で読書を始めた。

 日に焼けたページをパラパラと捲った。武士の話のようだが、内容がさっぱり頭に入らず、整列された文字から、情景が描けなかった。自分の想像力のなさにうんざりしたが、武士の話なら、生きる武士の吉田を知っている。吉田は刀を使わないが、刀のように磨き上げられた肉体を持っている。文学にて武士を追う必要もないだろう、と携帯電話と同じように本を放った。

 しかし、すぐに立ち上がり、本は教科書が並ぶ棚に収め、携帯電話は机に置いた。



続く。


花子出版   倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。