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中卒だった頃の自分、今の自分③

こんにちは、ハナチェンコです。③です。

3.中卒時代(2)

1984年(昭和59年)17歳の夏、大検を受ける

一旦バンド活動を辞め、高卒の資格を取ることにしました。今は「高認」と呼ばれている試験の前身で、当時は「大検」と呼ばれていました。

母親には大検を受ける旨伝えましたが、父親には内緒で申し込みました。なんせ「育て方を間違えた」などと言われていたので、とても言い出せる雰囲気ではありませんでした。

書店で対策本を探しましたが、当時はそんなものほとんど存在しておらず、かろうじて見つけた過去問集のようなものを立ち読みし続けました。変なプライドが災いしたのだと思いますが、買う気にはなれませんでした。

科目は全部で13あったと記憶しています。なんと体育の実技までありました。高校中退者で在学中に試験をクリアした科目がある場合は、その科目については試験免除になるとの事でした。が、私にそのような科目があるわけもなく、13科目全部受ける必要がありました。

最初は3,4科目受かればいいかな。数年計画で行こう

そんな気軽な感じで勉強を続け、試験を受けました。会場は自宅からバスで30分ほどの所にある県立城南高校(かなりの進学校)でした。8月の暑い最中、試験は行われました。

会場の高校に入ると、「ハナチェンコやん!」という女子の声が校舎の上の方から聞こえてきました。中学の同級生でその高校に通う女子生徒に見つかってしまったのです。夏休み中ではありましたが部活動や補習等で生徒はそこそこいたのでした。

超ロン毛だったのになぜ、しかも上からみて分かったのだ...と恥ずかしい思いでいっぱいでしたが「おぉ久しぶり!」と明るいそぶりを見せ、試験に臨みました。私の座席は窓際でしたが、グラウンドで野球部の上級生が下級生をずーーーと説教している声がまる聞こえな中、試験を受けました。

筆記試験を終えると次は体育実技です。種目は「立ち幅跳び」と「バスケットボールのシュート」、そして「バレーボールのトス」という微妙な感じのものでした。陸上部だったので立ち幅跳びは高得点、バスケのシュートも結構きめられましたが、バレートスの際、1人だけ「前に出なさい」と試験官に言われ、

君のトスの仕方はおかしい、こうだ。やってみなさい。ち、ちがう。こうだ

とやられて周囲の失笑を買いました。それ以前に1人だけロン毛だったので色々笑われていました。立ち幅跳びの時はロン毛がブワッと揺れて笑われました。

こんなんじゃ全然ダメやん。1科目も受かってないかも...

とうなだれて帰宅しました。事件はその日の晩に起こりました。

夕食時テレビをつけていると、地元のニュースで

今日、市内の県立城南高校で大学入学資格検定試験が行われました

と映像と共に紹介がありました。まだ大検自体が珍しかった時代です。

と、ものっすご私の姿が写っているではないですか...。悪い意味でのロン毛効果、「こんな奴が受けにきてるんやで」という感じで撮られたのだと思います。父親には何も言っていなかったので、ダッシュでチャンネルを変え、事なきを得ました。

高卒資格を取る

それから2ヶ月ほど経った10月下旬、文部省(今の文部科学省)から大きめの封筒が届きました。たぶん大検の通知だろう、とは思いましたが、開ける勇気がいまいちありませんでした。

開封すると、なんとそれは「合格証書」でした。つまり13科目全部合格して、高卒の資格が取れていた訳です。

名称未設定2 2

嬉しくて嬉しくて、「きゃーーーっ!」と奇声を発しながら家の中を飛び跳ね、無事天井で頭部を強打しその場にうずくまりました。家族はみんな留守でした。30分ぐらいうずくまっていました。今でも覚えていますが、人の頭って、硬いもので強打したらボールみたいにブニュって弾むんですね。

なぜ一発で合格できたのか分からないまま、「やっぱり俺は頭いい」と確信してしまいました。もちろん大きな勘違いです。ただ、普通に高校に行っていたらまだ高3の秋です。つまり私は同級生に数ヶ月先んじて「高卒」の資格を得た訳です。まさに天狗になる材料は揃っていました。

当日家族に伝えると、驚きつつも喜んでくれました。それまで隠していた父親が一番喜んでくれました。

父:「Q大受けるか?」「共通一次受けるか?」
私:「いや東大一本で行く(キリッ)」

などと会話したのを覚えています。ご褒美に、年末東京に一泊旅行に行ってこい、と言われました。御茶ノ水駅近くのホテルに泊まり、東大赤門の前で記念撮影をしました(当時の写真が出てきたら載せますw)。もう忘れてしまいましたが、いったい誰に撮ってもらったんだろう...。

1984年〜1988年(18歳〜21歳)、大学に落ちまくる

親の手のひらが表にひっくり返ったので、これ幸いとばかり、

Z会やりたい。代ゼミに行きたい。

などと「ねだって」しまいました。親にしてみれば、文字通りゴミみたいだった息子がワンチャンなんとかなるかもしれない!と思ったのでしょう。私の言うままにやってくれました。もう感謝しかありません。

結局、最初はZ会を始めました。そして翌年大学をいくつか受験しました。東京の難関校ばかりです。そして全滅しました。ちなみに理学部数学科を中心に受けました。

なんか変だなぁ…

と思い始めました。もしかしたら最初から分かっていたのに、自分で認めたくなかったのかも知れません。

当時の大検合格レベルは、教科書の最初にある「基本問題」を半分ぐらい解ける程度だったのです。つまり普通に高校に行っていたら赤点だらけで卒業はおぼつかないレベルです。だから私でも受かったのでした。こんなレベルで大学に受かるわけがありません。

なのに私は、Z会の中でも最難関の東大理系用のコースを選んでいました。数学はともかく、他科目はまったく歯が立ちませんでした。というか、中学程度の学力もないわけですから、そもそも問題自体全く理解できず、真っ白な答案が溜まる一方でした。「無謀」の一言でした。なのにまだ「俺はスゴいんだ、すぐできるようになる」などと信じ込んでいました。

その後、高校に通っていたら2浪に入る春に、市内にできた代ゼミに通わせてもらいました。ただそこでも「俺は頭いいんだ」病が出てしまい、東大理系コースを「迷わず」申し込みました。もちろん選抜クラスです。選抜試験の出来は…推して知るべし、です。

ところがしばらくして代ゼミから電話があり、「選抜試験に合格しました」と告げられました。「やっぱ俺は頭いいのだ」と、またまた確信してしまった瞬間でした。今ならすぐに分かるのですが、そして当時でも普通分かりそうなものなのですが、代ゼミができて初めての生徒だった訳です。いわゆる「ご祝儀相場」で希望者は恐らく全員「選抜」していたのだと思います。

そもそもそれ以前に、ここは予備校、飽くまで「東大『コース』」であって、東大に受かることが保証された訳でもなんでもありません(当時の感じだと、東大コースから実際に東大に行けた生徒は数%でした)。

なのにもう東大に通った気で、基礎力も何もないのに大きな顔して代ゼミに通いました。現代文と数学の授業だけ。

そう、ここでも「好きな科目しかやらない」病が出てしまったのです。ただこの2科目、正確にはお2人の先生に心酔し、毎回授業後に講師室まで押しかけて質問したりしていました。

なおこれは後日談になりますが、2021年6月、勤務先のメールボックスに一枚のハガキが届いていました:

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これには本当に驚きました。当時心酔していた現代文の先生から30年以上ぶりにおハガキをいただいたのですから...。本名とかでてるけど嬉しいからもういいや笑。こんなことってあるんですね...。なんというか、生きててよかった。

話を戻しましょう。という訳で、案の定翌年も受けた大学全てに落ちました。ただ前の年とは違ったのは、理系学部と文系学部を混ぜて受験して落ちた事でした。予備校で受けた現代文の魅力にハマってしまった結果です。

父に呼ばれ、

理学部と文学部を両方受ける奴があるか!バカかお前は!

と激怒されました。再度親の手のひらが、また裏側にひっくり返った瞬間でした。

そんなこんなで、高校を中退してから22歳になるまでの6年ちょい、中卒のままジタバタしていました。高卒資格を取っても学歴上は「中卒」のままなので、そういう事になります。

今回はここまでです。次回は大学入学後のお話に進みます。ここでもまたいつもの調子で派手にやらかしてしまいます。お楽しみに(?)

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