「ゲームは楽しむのが一番だ!」なんて誰が決めたのか。

「ゲームは楽しむものだよ!」

それは分かりますが、

「ゲームは楽しむのが一番だ!」

なんて、誰が決めたのでしょうか。

ゲームで辛いことがあってもいいじゃないですか。

ストレスを溜めてもいいじゃないですか。

「ただの娯楽」を抜け出したいのなら。

世の中には様々なステレオタイプがあります。ステレオタイプってのは、多くの人に浸透している先入観や思い込みのことですね。それらを私たちはいくつも脱却し続けてきました。

例えば「女性は働かずに家で働くもの」なんて呟いたら、Twitter森のどうぶつたちに袋叩きにされて逆さ吊りに合います。そんな偏見を持っている人は、いまや日本でも希少種となってきました。

最近見直されてきたステレオタイプは「人間は必ず異性と恋をするもの」だとか、「社会人は定年まで一つの会社で働き抜くべきだ」などでしょうか。若くて頭の柔らかい皆さんなら、この言説が間違っていることぐらいすぐに分かりますよね。(頭がマルドッキオのように固いオジサンはさておき)これらはここ5年ほどで一気に認知が広まった感覚があります。

そしてもっと最近では、ただの「ゲーム」に過ぎないと思われていたものが「e-Sports」と名を変えて、世間に通用するキャッチコピーとなりました。ストリートファイターのウメハラさんが世界大会で「背水の逆転劇」を決めたのが2004年のことですから、「e-sportsのようなもの」はもっと昔からあったはずなのですが。

何はともあれ、私が3歳のころから親しんでいたゲームがようやく悪者扱いされなくなってきたのは歓迎すべきことですので、そこには何も文句はありません。

(今年の3月までとある高校で働いていましたが、今の高校生は僕たちが学生だった頃に比べて「オタク」という存在を認めてくれている印象があります。多様性に対して寛容、というべきか、色んな人がいてみんないいよね、という認識が強いようです。)

ですが、いつも私が疑問に思うのは、

「ゲームは楽しむのが一番」

という一般論っぽいものに、何もツッコミが入らないことです。

なぜか。理由は単純で、

これは「ある側面」では正しいし、「ある側面」では間違っているからです。

もちろんゲームは楽しいものです。

ですので、その側面では正しいのですが、次はそれを曲解する人が現れだします。

よくあるゲーマー同士の会話でこんなものがあります。

A「はあ、、、今日全然勝てんわ...腹立つ...萎える...」

B「ゲームは楽しむのが一番だよ!」

A「そうやな。今日はやめて早く寝るわ」

皆さんも一度は耳にしたことがあるでしょう。よくTwitterのTLでこの流れをよく見ますね。

でもこのAさん、ここで本当に寝ちゃっていいんでしょうか?

そりゃあ、体調が悪かったり、明日が早いとかだったら寝るべきですよ?ここでは、体調は普通で、明日起きる時間はいつもと同じだと仮定して話をしましょうか。

Aさん、このままだと明日以降も早く寝ちゃいそうじゃないです?

「勝てなくて萎えたから寝る」を一度自分の中で許容してしまうと、それからもその甘えは癖となり、そして習慣となっていくわけです。それって本当に正しい姿なんでしょうか?

身に降りかかる良からぬことって、寝たら去っていくものなんでしょうか?もしそんな世界ならどれだけ良かったことか。

「何もゲームにそこまで本気にならなくても」と思うかもしれません。ですが、今回の話の肝はそこなんです。

その発想のもとになっているのは「ゲームは楽しむためだけのもの」という強いステレオタイプなのです。まだ脱却できてないんです。頭がマルドッキオになっているんです。

僕たちの知るゲームというのは、もうそのような安っぽいものではないはずです。

僕たちはシャドウバースのプロ選手が流す涙を何度も見てきたはずです。自身への怒り、敗北への悲しみ、色んな感情を画面を通じて見てきたはずです。

他のゲームでもそうです。ウメハラさんに10先で敗北し、「せめてゲームだけでは勝ちたかった」とこぼすときどさんの姿。世界一プレイヤーのMKLeoに対し、お互いあと1ストックのところでスマッシュを決められ、茫然と画面を見つめるザクレイさんの姿。

そして、勝利時に飛び上がって喜ぶ姿。熱狂する観客たち。

ゲームはまさに「喜怒哀楽」の象徴となり得ている。様々な感情が渦まいて、一つの大きなストーリーを生み出しつつある。

そんな中、「ゲームは楽しむのが一番だ!」と決めつけることの、なんと浅ましいことか。

と、僕は思うわけですね。

要するに、人が持っているすべての感情を引き出して取り組めば、「楽しむ」だけでは見えてこなかったものが見えてくるんじゃない?ということです。「楽しくなくて辛い」のであれば、そこに悔しさを覚えるべきなのです。そしてその不快感を取り除くためにどうすればいいかを考えるべきなのです。

とある格ゲーマーの言葉を借ります。その方は毎日欠かさずコンボ練習をしています。その時間、なんと5時間。「そんな練習が楽しいって思えるのも才能ですね」という配信のコメントに対し、「そんなわけねぇだろ。全然おもろくねぇわ」と一蹴しました。「でも、負けるのが一番しょうもないからね」という言葉を添えて。

もしみなさんが上の例でいうAさんだったら、どうします?

僕だったら、最低でもリプレイを流し見して、何で負けたのかなーという答えを探し、メモを取ってから寝ます。人によってはもっと深いところまで考えて、構築を練り直し再戦までするかもしれません。

感情論が必ず正しいとは全く思っていませんが、この点に関しては少なくとも「気合」が大切だと思っています。負の感情を持っているときに前向きな行動をするのは、案外とても大変なことですから。

ですがそれが習慣になれば、ゲームとは別の領域でも生きてくる時が来るんじゃないかと信じています。僕にとってゲームは「スキルアップの場」でもありますから。

ひょっとしたら、ゲームが「強い人」と「弱い人」の差って、そうした習慣の有無で決まるのかもしれませんね。


まとめます。

「ゲームは楽しい」という言葉はひとつも間違っていません。

しかし、「ゲームは楽しむのが一番」という言葉にはある種の「逃げ」が混在しています。今の時代のゲームはそんな領域のものじゃない。

人としての全ての感情を動員し、全力で取り組むことのできる、深い懐を備えているもの。それが今の「ゲーム」という文化である。


今回は以上です。最後までお読みいただきありがとうございました。

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これからもこんな与太話を書いていきますので、これからもよろしくお願いします。

ではでは。


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